13
―竜神様―
ここ最近、実故は朝早くから、私の元へ訪れてきている。学校で何かあったのは大体分かるが、そのうち立ち直ったらいつも通り夕刻からくるようになるだろうと思っていた。
しかし、私の勘は珍しく外れた。いや、勘ではないのか、勘だけでいえば立ち直らないだろうと思っていた。だから、外れたのは私の希望的観測であろう。
そして、事故とは今日もカバンを持って、ここへやって来た。もちろん朝にだ。朝に来て、夕方に帰り、日が沈みきる直前に手ぶらでまたここへ来る。大概今日もそんな所だろう。
そんなことをしている理由? それは誰にだってわかることだ。
実故は、学校へ行く振りをして、ここへ来ているのだ。そもれ、ここ2週間毎日である。
「竜神様、おはようございます」
実故の声が洞窟内に響く。
越えは反響して大きくなり、元気なように聞こえるが、それが本当に元気なのかどうかを判断するのは、私にはできなかった。だからといって、占でそれを確かめてまで、そうこうするつもりもなかった。
一人で立ち直ると思っていた―――否、実故は一人で立ち直れるほどの力を持っていると希望的観測をしていたから。
だけど、それは昨日までの話しだ。
実故は、実故には、そんな力はなかった。その力が残っていなかった。いや、そうするつもりがないだけなのかもしれないが、それは分からない。だが、私にはその力がないように見える。
私は占をした。もちろん全てを見たわけではない。全てを聞いたわけではない。実故の気持ちは、実故に訊かなければいけないと思ったからだ。
それだけは占に頼ってはいけないだろう。
きっと少し前までの私ならば、相手の気持ちを知るために心の中の隅々まで全て覗き込み、その結果から、的確な答えを出していたのだろう。でも、今は、たとえ私の出した答えが間違いとなろうとも、気持ちまで占で知ってはいけないと思ってしまっている。気持ちは、その気持ちだけは、本人の口から聞かなければいけないと思っている。
私は、実故と一緒に過ごしてきた、たった数年で変わったのだろう。
成長かどうかは分からない。もしかしたら退化退行しているかもしれない。人間としてどうなのかは知れないが、神としては確実な退行だ。それでも、これが人間としての成長ということなのだろう。ふん、人間か……ここまで長く私と密接にいた人間は今までいなかったな。実故がきっと私を変えた。それが正しいのかどうかなんかどうでもいいだろう。大事な事象は変わったということだ。
私は、この生物学的進化を信じることにする。心の成長を進化と言うかどうかなど知ったことではない。私は、間違いなく進化した。前までの私に戻りたければ戻ることだってできるだろう。ならば、今この心境を知ったのは間違いなく進化だ。
進化させてくれたのだから、礼くらいはしてやろう。実故が私にプレゼントをくれたように、私も実故に何か礼をしなければいけないはずだ。
「おはよう、実故」
いつにも増して真面目であるだろう私を見た実故は、少し戸惑っているようにも見えるし、いつも通りのようにも見えるが、きっと恐れているのだろう。これからはなす事の内容に対して。
多分、何の話をするのか、実故は知っている。きっと、その話を持ち出されることに対して恐怖はあったのかもしれない。
「実故、今日は私の部屋に来い。話がある」
私の子の台詞を訊いた実故からは、少し怯えた表情が見えた。その姿は、これから説教される子供と捉えることも出来るし、死刑執行を待つ罪人と捉えることも出来た。
大丈夫だ。お前は、なにも悪いことはしていない。大丈夫だ。私はお前の味方だ。大丈夫。大丈夫なんだ。
ただ、一つだけ、お前に悪い所があるとしたら。
辛いのに、人を、家族を、私を頼らなかった。それだけは、お前の欠点だ。頼れなかったのかもしれない。頼る勇気すらも、もう底を尽きかけていたのかもしれない。けれども、頼ってほしかったかもしれない。周りにいる、お前の味方は。
「………」
私は、腕を無理やり引っ張るなどと言うようなことはせずに、先に一人で部屋に行き、扉を閉めて実故を待った。
扉を閉めたのは、実故に力を付けてもらう。いや、力を取り戻してもらうためである。実故には経ちなお内からがあったはずだ。今は、ただそれが極端に弱くなっているだけで、きっと取り戻すことが出来るはずだ。私がするのは、それの手伝いだけだ。
それに、無理やり引っ張られて連れて来られるのではなく、地力でこの部屋に入ってくるとするならば、説教が始まると思っているのであろう実故は、それなりの決心をしなければいけないはずだ。その決心を固める時に、私の顔が常に見えていたならば、決心を固めるなんてことは出来ないだろう。だから、扉は閉めた。
自分の意志で入って来るのを待つ。いくらでも待ち続ける。
実故は、きっと大丈夫。
じっと、何もせず待つ必要もなく、私が座る頃には、扉が開いた。これには少し驚いた。少しは待つことになると思ったのだが。こんなにすぐにその扉を開けるとは。
少し怯えているようにも見えるが、その瞳は私を真っ直ぐに見ていた。
実故は、私が思っているよりもずっと強いのかもしれない。
「あ、あの、りゅ、竜神様……」
「落ち着け、何も取って食おうと言うわけではない。まずは、そこに座って落ち着け。別に叱ったり怒ったりするつもりではない。大切な話をするだけだ」
大切な話をすると言っているのに、「だけ」というの、甚だ可笑しい気もするのだが。しかし、今の実故に伝えるためには、このくらいでちょうどいいだろう。
「りゅ、竜神様、そ、その、なんのはなしを……す、するんですか……?」
こんなに、怯えた様子の実故を見るのは初めてだ。だが、怯えながらも、私から目を離そうとはしない。こちらを直視し続けている。
「まぁ、まず座れ。ゆっくり話をしよう。言うなれば、人生相談まではいかないかもしれないが、相談会でもしようではないか」
「は、はい」
実故が私の前で正座した。
「実故、率直に聞きたいことがある。
お前は今、何がしたい?
これが、私から実故への質問だ」
「え……? それって、どういう……?」
「どういうもなにも、言葉の意味のまま捉えればよい。お前は、今、何をしたい」
今日一番の戸惑い様だ。
実故の答えを聞くまで、私は黙っていることにした。そして、少しの間、この部屋は静寂に包まれたが、それは本当に少しの間だった。
戸惑いながらも私の質問に答えた声が、この部屋に現れたからである。
「わ、私は……竜神様と一緒に居たいです……」
実故はそう言った。私と一緒に居たいといった。私の期待していた答えとは、少しベクトルが違うようだ。といっても、なんというか、180度というよりか、微妙にそれて75度くらい違う感じなので、私も少し笑ってしまいそうになったが。こんな真面目な時だというのに、それじゃあ、まるで告白みたいだ。まぁ、でも、いまので、少し、気が楽になっただろ、実故も……。
そういえば、最初に実故と出会った時も、私の考えていたようなことは言わなかったな。なんというか、その時も、微妙にそれたベクトルの物が飛んできた気がする。たった数年前の事ですら懐かしさを感じるのは、その数年が濃いものだったからだろう。
「お前、学校はどうするつもりだ?」
私は、別ベクトルの答えを聞くために、少し誘導をしてやった。
「………」
「………」
静寂はまたもや部屋に訪れる。
今度の静寂は、木の葉に随分と長く居座ってくれたようで、破られたのは、訪れてから随分と経った後であった。
「その、私、竜神様と一緒に居たいと言うのは、本当なんです。私、学校で、誰からも必要とされていないし、居ても居なくても変わらない。むしろ、居ると邪魔みたいだし、学校で習うよりも竜神様から習った方が分かりやすいし、あの、その、わ、私は、学校じゃなくて、ここに居たいんです。私の事を見捨てたりしないで、ちゃんとみてくれるのは、お爺ちゃんとお婆ちゃんの他には、竜神様だけなんです。だ、だから、そ、その、その……私は、竜神様と一緒に居たいんです」
………。
「実故」
………。
「は、はい……」
………。
「私は、そんなすごい生き物ではない」
………。
「………」
………。
「そんなに私を頼るな。私はお前が思っているほど、なんでもできるわけではない。私は、全知全能の神ではない。ただの一竜神でしかない。だから、お前は、お前の力を信じて、自分の力で人生を歩んで行け。私には、そのサポートくらいしかしてやることは出来ないんだ。お前はお前の力で歩くしかない。私に背中を押されて進むだけでもいけないし、私の言われたとおりに進むだけでもいけないんだ。お前は、お前の選んだ道を、お前の力を使って、お前の足で歩くしかないんだ」
私は、そう言った。
ただ、そう言った。
そうか、そうだったんだな。
「りゅ、竜神様は、わ、私の事……見捨てないですよね」
「ああ」
そうか、すまなかった。なんて、謝る必要は無いのだろうし、謝ってもおかしなことになるだけだろうから声には出さないがな。
「竜神様、私から急に離れたりしませんよね」
「ああ」
私の存在だけじゃない。実故の在り様。それに、生い立ちにも原因はあった。
「りゅ、りゅうじん……さま……は、私を……私の事を……助けてくれるんですか……?」
「ああ」
実故は、私に依存していたようだな。最初は、親か、いつぞや実故が言っていた通り、姉として見ていたのだろう。それがいつの間にか依存するレベルにまで達していたのか。普通なら、そうはならないだろう。だが、密接に過ごし過ぎた。それこそ、私を変えるほどにな。実故は、親がいない。それもある。いろいろな事が絡み合って、実故は私に依存してしまった。私という名の鎖に囚われていたのだろう。きっと、学校の一件も、起こるべくして起きた。きっと、私を一番に考えるあまり、友達を作ろうともしなかっただろうし、学校の方のほうは疎かになっていたのだろう。勉強以外のところがな。だから、これは、それに気づかなかった私にも半分責任がある。だから、実故は、私が何とかしなければいけない。
「りゅう……じん……さ、ま……は、ずっと……ずっと……わ、私の……わたしの………そばにいてくれるのですか……?」
「ああ、もちろんだ」
実故は泣いていた。子供らしく。少女らしく。泣いていた。
少々、大人びていた実故も、今は誰がどう見ても、年相応の少女でしかなかった。
冷静沈着を気取った少女は、もうここにはいなかった。ここにいるのは、素直で泣き虫な少女だけである。
「わたし……、が、学校で……」
「言わなくてもいい、私は全て分かっているから」
私は言葉を遮るようにして、実故がその先を話すのを止めた。その話は知っている。その先を言わせて、実故を更に傷つける必要もなかろう。
「お前におまじないを掛けてやる」
宙に指で星を描き、術式を唱える。
人差し指と中指の二本を突き伸ばし、実故のおでこを右から左へとなぞるように撫でてやる。
そして、仕上げだ。実故、これで、お前は……
……―――
「えっ……、あ、あの……」
私は仕上げは、実故に効いたようだ。これで、私の取るべき責任の分は取った。あとは、お前次第だ。だが、大丈夫だろ。もしも、また折れかかったなら、もう少しだけ支えてやる。お前が独り立ちするまではな。