プロローグ
今日も、この場所は暗く湿っている。
いつも通り、人もなく、動物の一匹すらいない。
森の中で滝を見つけたとしても、その裏に回ってまでここに訪れる人も動物もいやしない。
だから、いるとすれば、私と一般的に雑草と言われる植物と少数の虫だろうか。
そんな滝裏の同区の最深部に私は一人……いや、一匹と言うのがいいのだろうか、それとも一柱か、はたまた人間の「一『人』」にならって「一『竜』」とするべきなのか。まぁ、私には皆目見当もつかないが……。とりあえずは、人型であるからにして、「一人」と表現させてもらうことにしよう。
それはそうとして、私は、この場所にずっと昔から住んできた。自分で昔からと言うと、実際のところはあまり長く住んでいないかのように思われるかもしれないし、私自身、そんなに長く住んでいるつもりもないのだが、それだとしても、時間を人間の定規で測れば長いものとなるだろうと判断して、昔から住んでいると言わせてもらった所存である。
具体的に……というほどでもないのかもしれないが、数字で表すとするならば、500年位前から住んでいる。人間が500年という年月をどう捉えるかは知らないが、私自身は先ほども言った通りさほど長くは感じていない。
そして、今日も相変わらず、一人。
私は大きな祠のような、神社のような、八畳間が一つあるだけの木造の建物に寝転がる。
ここで寝たり酒を飲んだりして過ごしているということは、この小さな神社の本殿らしき建物は私の住居と言えるはずだ。
別に勝手に住み着いているわけではない。そもそもこの建造物自体が私のために建てられたのだから、私がここに住むのはいたって当然のことである。有り難い限りだ。と、言ってもこれが建てられたから私がこの洞窟に住もうと思ったわけではない。
私がここに住んでいたから、ここに、これが建てられた。
それだけだ。
先ほどから、私は一人でずっとここにいるみたいな表現をしてきたかもしれないが、正確には朝から晩まで年がら年中ずっと一人でいたわけではなかった。
こんな場所にも、稀には人間が訪れてくる。と、言っても、最後に人間を見たのはそこそこ前だったような気がするがな。
人間は、ほとんどが共通の目的を持ってここに訪れる。
その目的とは、私に物事を尋ねに来る。大体はそれだ。
たまには、違うのもいるが、そんなものは例外と言ってもいいほど、少数派だ。
まぁ、その例外が、私に何かを尋ねに来ていないかと言えば、それまた嘘にはなるのだが……。なぜなら、この洞窟にたどり着けるのは、その目的を持ったものでだけであるからな。
この森の中には結界が張ってある。張ってある結界にもいくつか種類はあるのだが、メインは、この洞窟から囲うように張ってある結界だ。
その結界は一線を引く。そこから先に入れるのは、結界に出された二つの条件を満たす者のみだ。
まず一つ、一人であること。これは絶対条件である。
そして、もう一つが、先ほど言った通り、私に何かを問おうとする意志を持つことだ。これまた絶対条件だ。
前回ここを訪れた人間は、確か子を孕んだ女だった。私に何を問うたかと言えば、戦で日の本は勝てるか否かというようなことだった気がする。
たしか、私はこう答えた。
「負ける」
そう答えた理由は無い。
強いて理由を付けるとすれば、竜神の勘と言った所だろう。
自分で言うのもなんではあるのだが、確かに私は、占いが得意だ。卑弥呼よりもよく当たるやもしれん。必中だ。そして、その占いと同じくらいには勘の鋭さにも自信がある。
私が人間達の問いに答えるときの大半は勘である。一部の重要な依頼で未来を見たりする時や、私が知らないことを訊かれたときくらいしか占いはしない。
それで十分だから。
結果がどうなったかは知らないが、恐らく負けたんじゃないかと私は推測する。これも勘でしかないのだが、そもそも、この答え自体勘で出したものだから、
少し前の記憶を思い出して、今の世界が気になった私は、占術の用意をすることにした。
タイミング的にもちょうどいいしな。
洞窟内に人が入ってきているのは気づいていた。……かなり薄っすらとだが。
最近、人間が来ていないのもあって、滝付近に張っておいた訪問を知らせる結界のことをすっかり忘れていたが、そういえば、素早く人の来訪を察知するために張っておいたのだった。結界は張ってから時間が経つと効果が薄くなる。もちろん、この結界も例外ではなく、詳しい人物像までは分からなかったのだが、久しい来客だ。
私が占術の準備を終えると同時に、来客は結界無しでも気配を感じることが可能な距離にいた。
おそらく、今、この建物の前に立っている。
久しぶりの占術だ。どれ、少し占ってみるか。
今回はどのような難題を出されるのか、それとも、どんな未来を知りに来たのか。
私は柄にもなく、高揚とした気分でいた。
小躍りしてしまいそうな気持ちを抑えて、意図的に厳格な雰囲気を作り出し、この建物には一つしかない扉を開ける。
「りゅうじんさま、りゅうじんさま、どーかおしえてください」
覚えたての言葉を使ったかのような、幼稚な物言いに高い声。
私の目の前、いや、目の前方下部に立っていたのは、少女ならぬ幼女であった。
その歳でいったい何が気になるというのだろうか。
「どーかおしえてくださいー」
しかし、ここまで一人で来たのだ。このまま追い返すわけにもいかんだろう。
「何の用だ、私に訊きたいことがあるのならば、代わりの物を私に渡せ」
次久しぶりの台詞である。もっとも、いつもこんな言い方をしているわけではない。
原文としては、もっと難しい言葉が使っていたりするのだが、相手に伝わらなければ、意味が無いので、少し解りやすくはしている。
「あ、あの、その、えっと……お、お酒です」
幼女は、三つほど鬼殺しと書かれた紙の箱を持っていた。おそれあく、その中に酒が入っているのだろう。術式なしで紙の中に水を長時間入れられるようになっているとは、人の技術も進歩したものだ。
「確かに受け取った。さて、なんでも聞いてこい」
一体どのようなことを聞かれるのか。
表面には出さないように細心の注意を払いながらも、胸の高鳴りを抑えることは出来なかった。
幼女は私にこう尋ねた……。
「りんごって、なんであかいの?」
それは、子供がするただの幼稚な質問でしかなかった……。