007
宿に着いた途端、ローラはベッドに倒れこんでそのまま眠り込んでしまった。
この数日で彼女はずいぶんとまいっていた。精神的にも、肉体的にも。ガーネットがローラと出会う以前から既に、彼女は限界を超えていた。まだ出会って日は浅いものの、彼女の気丈な振る舞いは何かを隠し守るための盾のようだった。盾が砕ける前に休ませてあげなくてはいけない。
ローラが寝入ったことを確認し、ガーネットはふらつく足取りで、宿の娘に湯を貰いに行った。顔は腫れ上がり、衣服は血で染まっている悲惨な姿を見て、何度か医者を呼ぼうかと言われたが断固として拒否した。それから、夢の中を彷徨うようにして歩き、桶の湯をこぼしながら部屋に戻った。湯を浴び、体にこびりついた血と泥を落とす。
左肩の泥を落とすと、ぱっくりと口を開く傷が現れた。血は止まってはいるが、鮮やかな肉が見事に露出している。直視しがたい光景であるが、ガーネットは傷口の泥をしっかりと洗い流すためにざぶざぶと桶の水をかけた。桶の水が真っ赤になると、窓から外の植え込みに流し捨てた。服は既に洗って、部屋の中に干している。
都合のいいことに、この部屋はベッドが二つある上等な部屋だった。ひとつのベッドではローラが寝息を立てている。
眠っているとはいえ、流石に女の子の居る場所で裸はいたたまれないため、ガーネットは毛布に包まって雨が降り続ける窓の外を眺めた。
闇夜で真っ黒なガラス窓は、腫れ上がった男の顔を映していた。火傷のあとが残り、青い目は左右で濃さが違う。ローラがこの顔を見て驚かないのは、何よりも幸福なことだった。かつて、醜い顔だと罵られ、化け物だと迫害された記憶が蘇る。ローラには黒い森の入り江で生まれ育ったと言ったが、実の出生地はあの場所ではなかった。
ガーネットが生まれたのは、森の外にある小さな漁村だった。今は魔女が住んでいたところであり、オパールが食料をくすねてきたあの村だ。村で生まれたガーネットは母と、従姉の姉と穏やかな生活を送っていた――――、この火傷を負うまでは。
爛れた自らの顔をぼうっと見つめていると、窓に映る部屋の扉が音も無く開いた。すぐさま振り向けば、赤い髪の男がようと片手を上げて部屋に入ってきた。後ろ手に扉を閉め、怪我の具合はどうかと尋ねる。
ガーネットは毛布をしっかりとたぐりよせて、大丈夫とだけ返す。
「ずいぶんとつれない態度じゃないか。折角見舞いに来てやったのに」
「少し、声を小さくして欲しい」
とベッドに横たわる少女に目配せをする。男は悪い悪いと開いている方のベッドに腰掛けた。
男の名はルビーといった。ガーネットやローラよりも幾分と年上で、家は農家だという。もうすぐ冬になるため、こうして街までものを売りに来たのだそうだ。
「ガーネット、だっけ。ほら、差し入れもって来たぜ。この店の饅頭上手いんだぜ。一、二個ないのは気にしないでくれ」
そう言って差し出された箱には、ほんのりと赤く色づけされた蒸し饅頭が入っていた。もう冷めてはいるが、小豆の甘い香りがする。腹は減っていなかったが、このまま受け取らないのも悪いと思い、ガーネットは毛布の下からそろそろと左手を伸ばした。
その手をルビーは食い入るように見て、ぼそっと呟いた。
「傷、もう治ったのか?」
ガーネットはすぐさま毛布の中に腕を引っ込めた。怪訝そうなルビーの顔に、ガーネットはがたがたと震え始める。大きな背中を丸めて怯える姿はあまりにも情けなく、道の端でうずくまる子犬のようだった。
「お前、確か手も怪我してたはずだよな?」
伸ばされる手にガーネットはぎょっとして小さく悲鳴を上げる。
「別にそんなに怖がる必要もねえだろ。もう一度、腕をよく見せてみろって」
「い、嫌だ」
と後ずさりながら、ガーネットはふるふると首を振る。
このことがばれてしまえば、またひどい言葉を投げつけられる。幼い頃の記憶がありありと蘇り、男の伸ばす手は自分に向けられたナイフのようなに恐ろしかった。
するとルビーは足を踏み込み、ガーネットとの間合いを一気に詰めた。そして毛布の一端を掴むと、ガーネットが抵抗するよりも早く、流れるようにして毛布を奪い取った。
「やっぱりか」
観念したように顔を伏せるガーネットは、左肩を押さえ、その場に座り込んだ。大柄で鍛え上げられた肉体には無駄が無く、ある種芸術性のようなものを感じ、人の盛りである青年らしいの体つきだった。そして体中には、顔と同様に爛れた火傷のあとが拡がっており、無数の痣と傷で埋め尽くされていた。
しかし不思議なことに、傷あとはあるが、傷はなかった。軍人たちによって鈍器で殴られ、剣で切りつけられた箇所は、もう塞がって傷あとになってしまっていたのだ。ガーネットはゆっくりと左肩から手を離し、ルビーに毛布を返せと要求する。左肩の傷口も、先刻よりいくらか塞がり、今では薄っすらと瘡蓋ができていた。常人であれば完治に一週間かかる傷が、治りかけている。
ルビーはすんなりと毛布を返すと、なるほどと独りで頷き、再び毛布に包まって小さくなる男を見下ろした。
「この街に来てから、面白い話を聞いたんだ。セレナより西、黒い森の近くに漁村がある。そこには以前、不死の人間がいたんだってな。でも村人から迫害されたそいつは、黒い森に逃げた。不死のそいつは今でも黒い森住んでいて、仙薬を作っているって噂話。それが、まさか実在するとは思いも寄らなかった」
自分のことがまことしやかに噂されていたことは知らなかったが、彼の言っていることは概ね真実であった。傷つけてもすぐに治り、死ぬことができない。それがガーネットの得てしまった奇怪な体質だった。
「訂正するが、俺は仙薬なんてものは作っていない。薬を作っているのは、知り合いの魔女だ」
不死である自分と薬を作る嫌味な魔女の話が一緒になっているのは、いい気がしなかった。
ガーネットは膝を抱え、降りかかるであろう心無い言葉を待った。村にいた頃もそうだった。化け物だと罵られ、恩知らずと蔑まれ、どうしてお前が生き残ったのかと咎められた。
けれどいつになっても殴られることもなく、唾を吐かれることもなかった。饅頭の入った箱を薦められる。
「なんだよ、辛気臭い顔しやがって。ほら食えよ」
あまりにしつこく薦めてくるので、ガーネットは渋々一つを手に取った。ルビーは最初に会ったときのように、あっけらからんとした顔で饅頭を頬張っている。
「そんなに怖がるなよ。何もお前を見世物小屋に売り飛ばそうだなんて考えちゃいないぜ。オレは偶然、お前が湯の入った桶を運ぶところを見かけたんだ。でもお前は確か、左肩に致命的な傷を受けていたはず。あんな深手を負っていたら、普通腕を動かすことも無理だ。だがお前は涼しい顔してなみなみと湯が入った桶を持ち、階段を上っていった。それにお前は医者に怪我を診せることを拒んでいただろ。こいつは妙だと感じ、あれこれと考えていたら黒い森に住むっていう不死人の話を思い出したってわけさ。いや、半信半疑だったんで、こうして目の前にすると正直驚いてはいるんだが」
ガーネットは黙りこくって、手の中の饅頭を見つめる。ルビーは上手そうに饅頭を食べているが、ガーネットにとってこれはただの粉を練って、蒸した小豆を詰めたものでしかない。食べたところでほとんど味は感じない。不死ということは、そういうことだった。人が感じていることを共有できない。食べ物の味も、風の冷たさも、身を切られる痛みも、ガーネットは感じることができないのだ。
人と同じものを共感できないことは、区別され、異端視される。生を感じることのできないガーネットは、生死の狭間をさまよって、生者からも死者からものけ者にされた。
それ故に、ガーネットは黒い森の中で暮らしていた。これ以上傷付くことのないようにと父に連れられ、森の中の入り江で暮らし始めた。孤独に、誰とも会わず。
父と魔女がいたが、二人はガーネットを壊れ物のように扱っていた。どうやっても、自分は疎外されてしまうのだ。不死である限り、ずっと。
「このことは、彼女には言わないでくれ」
掠れる声でルビーに頼み込む。もし不死であることがばれてしまえば、彼女もまた自分を異端視するに違いなかった。
彼女の前では、ガーネットはまだ平凡に時間を過ごす人間でいたかった。
ルビーは死んでも口外はしないぜと言い切り、任せろと言わんばかりに拳で胸を叩いた。
彼の人懐っこい笑顔は、会ったときから少しも代わりが無い。ガーネットはそれに少し気を許すと、冷え切った饅頭を齧った。
翌朝、ガーネットが起きたのは日がすっかり昇りきった頃だった。身支度を整え、一階の食堂に行くと窓際の日当たりのいい場所に座った。茶を一杯頼み、ぼうっと表を眺める。雨の次の日ということもあって、大気は澄み渡り、通りを歩く人々の顔も晴れやかにみえた。体の傷は全てが治り、腫れ上がっていた顔は元通りになっていた。
ようやくローラが起きてきたのは夕方だった。それまで植物のように窓の外を眺めていたガーネットは、向かいに座ったローラに体を向けた。
「何か、食べるといい」
開口一番にガーネットはそう言って、適当なものをいくつか注文した。夕食時の店は満員だった。どの席でも今日一日の疲れを労う騒ぎで盛り上がっていたが、窓際の隅の席だけはしんみりとしていた。
「ごめんなさい、ながながとわたし一人眠っていて」
苦笑するローラに、ガーネットは首を振る。
「お互い大変だったし、仕方ない。俺も起きたのは、遅かった」
「ガーネットさん、怪我は大丈夫ですか」
「うん」
と静かにガーネットは手を机の下にしまった。
「あんたこそ、体調はいいのか。もう少し、休んでいた方がいいんじゃあないのか」
「大丈夫です。わたし、人よりは体力があるので」
会話が途切れたところで、頼んでいた料理が運ばれてきた。
ひき肉と芋を具にしたパイと冬菜のおひたし、豆とにんじんのスープ。目の前に料理が並ぶと、二人は無言で食べ始めた。
けれどローラは落ち着きなく、ガーネットの手元に時折目をやっている。
「どうした?」
ローラのぼうっとする様子を心配して、ガーネットは軽く声をかけた。
「たいしたことではないんですけど。あなた確か、左肩をかなり深く切られていたみたいだから、今はどうなっているのかなって思って」
そこでガーネットは、ゆっくりと視線を床に落として、左手を再び机の下にしまった。
ローラが不信そうに首を傾げたときだった。
突然、食堂の戸のベルがやかましく耳をつんざいた。
皆の視線が集まる先には、星鉱石の紋を胸につけた兵士が血走った目で室内を見回していた。つい先ほどまで談笑しあっていた人たちは顔を真っ青にし、突如として現れた異質な存在を見つめる。ガーネットも何事かと思って彼等を見ていると、兵士の一人が大きく顔を腫らしていることに気がついた。その瞬間、顔を腫らした兵士と、ガーネットはぴたりと目があった。
「あ、あいつです!」
こちらを一直線に指差し、その場にいる全員の視線がガーネットに集まる。
「あの火傷の男が俺たちを殴ったんだ。それにあの横にいる小娘は確か、先日の乗り込んだ組織の拠点にいた奴だ。組織の奴等と分かれば、ただじゃ済ませねえぞ!」
そこでガーネットは、ぼんやりと昨日殴った帝国軍の男を思い出した。顔の半分が紫色に腫れあがっているが、おそらくガーネットが殴りつけた男だ。
兵士の一人が合図を送ると、狭い戸口からわっと紺色の制服を着た兵士達がなだれ込み、剣を携えてこちらへ向かってきた。他の客達は食堂の裏口から逃げ、ガーネットは帯に下げていた鉈を取った。
全部で十数人。勝ち目はないが、彼等の相手をしているうちにローラがうまく逃げ切ればそれでいい。
父から教わったことを思い出し、構えをとる。迫る兵士たちとの間合いをはかっていると、後ろから服の裾を引っ張られた。
「ここは逃げましょう!」
ローラはしっかりと裾を掴んでいて、振り払おうとしても全く引かなかった。
「追われているのはあんたなんだ。ここは俺が引きとめておく。あんたは他の客と一緒に裏口から逃げろ」
しかし、彼女は首を振って頑として動かない。
「あなたひとりで、太刀打ちできる数じゃありません!」
「あんたは早く安全な場所に行くんだ」
突き放すような一方的な言い方に、ローラは仕方なく手を引いた。
そして再び、ガーネットは眼前に意識を集中させる。ここは勝てなくてもいい。ローラを逃がすことが最優先だ。何せあの時、自分は誓ったのだ。この子を守ると。彼女を守るためであれば、この死なない体が引き裂かれてばらばらになったとしても守り通してみせる。
するとその時だった。目の前に、さっと白い影が現れた。
「捕まえるのならば、このわたしを捕まえればいい」
前方に飛び出してきた少女に兵士たちは騒然となり、ガーネットも頭の中で練り上げていた時間稼ぎの段取りが消え失せてしまった。
「彼は何も関係ありません。このまま、投降するわ。だから彼には危害を加えないで」
兵士たちの頭であろう男は、ローラの顔をまじまじと見て片眉をくいと吊り上げた。
「小娘のわりに、いい度胸じゃないか。組織の奴らなんて陰でこそこそとしてる腰抜けばかりだと思ったが、中には気概がある奴もいるもんだ」
つかつかとローラへ歩み寄る兵士に飛びかかろうとするガーネットであったが、すぐさま他の兵士達によって押えつけられてしまった。
「あんた、何を」
と困惑に声を震わせるガーネットは、ローラの背中を仰ぎ見た。
「これ以上、わたしの事情に巻き込んで迷惑をかけるわけにはいかない」
ガーネットは兵士に連れ去られていく少女に手を伸ばすが、むなしくもその手は踏みつけられ、剣が突き立てられる。鮮血がほとばしり、次々と背中を蹴飛ばされる。
これはあの時の仕返しだ、と兵士が叫んだ。それから、ガーネットは兵士たちに殴られ、蹴られ、ありとあらゆる暴行を受けた。次第に意識はぼんやりと朧気になってきて、くぐもった音が途切れて頭に響く。額を切って目に血が流れ込み、視界に赤い闇が広がる。
温かな光が、どんどん遠ざかっていく。また、独りになってしまう。
「おい、ガーネット! しっかりしろって」
自分の名を呼ぶ声に、ゆっくりと意識が目の前に戻った。目に血が流れ込んでいるために、片目のみを開けて前を見た。血のように赤い髪の男がいる。ルビーだ。
「なんだってお前は、いつもそう血だらけになんだ?」
店の中に兵士たちの姿はすでになく、机や椅子が無造作に転がっていた。
「帰り道に帝国軍とすれ違って、まさかと思って急いで帰ってきたらこのざまだ」
ルビーは頭を押さえてやれやれと首を振った。
ガーネットは鼻血を流しながら、ルビーに支えられて立ち上がった。足元がふわふわするのは、頭を鈍器で殴られたせいだろうか。床には割れた酒瓶が散乱している。二階の部屋に運ばれていくガーネットに、騒ぎを聞きつけて上階から降りてきた客たちが心配の声をかけてくれた。
「全く、次から次へと面倒ごとを起こしやがって。ところで、ローラちゃんはどこに行ったんだ?」
そこでガーネットは、今まで遠くへいっていた意識がすっと体に戻った。一気に頭が冴え、耳の奥で力強く血潮が流れ始める。
「大変だ。ローラが軍に捕まった」
慌てて階段を降りようとするガーネットの腕を、ルビーが掴んで引き止める。
「やめておきなって」
陽気な彼が発するとは思えない、冷ややかな言葉だった。その物言いに、ガーネットはなぜか父を思い出した。
「あの子、組織の人間だったんだろ? どのみち捕まる運命だったのさ。それに、お前を庇って自ら投降したらしいじゃねえか。その覚悟を、お前は無駄にするのか」
ガーネットは荒い息を呑み込んで、他人ごとのように話すルビーを真正面から睨んだ。その燐光のように燃える眼光は、手を掴んでいるルビーをひるませた。
「俺は誓ったんだ。彼女を守ると」
ガーネットはルビーの腕を振り払い、一階の食堂へ戻ると、放ったままの鉈を拾って宿を飛び出した。ローラを助けるために夜の街を駆け、顔の血を袖で拭う。
肌に触れる風は、ひんやりとしていた。