006
赤毛の男はローラの腕をしっかりと掴み、この重苦しい雨につかわないほど陽気だった。
「いやあ、たまたま通りかかったらとんでもねえ騒ぎだろう? で、近くに来てみれば軍と田舎者のけんかと見た。奴が一方的にタコ殴りされてるのかと思いきや、犬っころを助けるために反撃とするとは。まったく、殴られすぎておかしくなったのか」
ずぶ濡れでけらけらと笑う男を、ローラは刺すような眼光で睨みつける。
「まあまあ、そう怖い顔するなよ。愛らしい顔が台無しだぜ? オレだって軍は嫌いだからよ、ぜひともいけすかない野郎どもに泡をふかせてやって欲しい」
すると赤い髪の男は、軽食屋から覗く者たちのほうを見て、誰か加勢する気がある奴はいないかと手を振る。けれど皆一様に目を逸らし、店から出てくるものはいない。
「おい、誰も来ないのか? なんだよ腰抜けばかりめ。あいつを見ろよ。五対一だぜ? しかも鉈一本でやりあってんだぞ。見ろよ、あいつもうほとんど避け切れていないじゃねえか」
雨に叫ぶ男を、今度はローラがその手を引っ張った。
「じゃあ、あなたが助けに行ってくださいよ!」
袖を掴むローラに、男はふざけたように鼻を鳴らして肩を竦める。
「それは勘弁してくれよ。オレが行ったところで勝ち目なんかありゃしねえ。この通り口は回るが、けんかはからっきしでね」
「じゃあ、わたしが行きます」
「そいつは賛同しかねるな。オレより勝ち目はねえや」
拳を震わし、ふりつける氷雨の向こうをうかがう。
「それよりも賭けをしよう」
と男は軽食屋の野次馬たちを指差した。皆一様に男の突飛な発言にただ言葉を失い翻弄され、舞台の道化師を観る客のようだった。
「天はこの世のありとあらゆることを知覚することが出来るというな。だったら、この目の前で起きている悪事も当然ご存知のことだろう。そんなら今ここに、天より悪を為す者たちへ裁きが下されるはずだぜ。さあ、賭けに乗る奴はいないか」
野次馬たちを指差す彼であるが、もちろん空しく雨が手を打つばかりである。
「しけたやつらだぜ。嬢ちゃんはどうする。賭けにのるか?」
奇妙なことばかりを言う男であるが、肌に刺さる冷たい雨の向こう、その瞳は真剣そのものだった。
「あの男が助かるか、助からないかだ。賭けに乗るってならば、お前さんは硬貨を出しな」
一瞬、やっと立っている満身創痍のガーネットに目をやり、ポケットに手を伸ばす。
「助かる方に」
「じゃあ。オレは助からない方だ。賭けるものは……、そうだなあ、そのコインの価値以上のもの。まあ何なのかはお楽しみで。ああ、いや金だけ巻き上げて逃げるようなことはしない。これでも嘘はつけない体質でね」
男にくれてやるつもりで手のひらにコインを置き、ローラは自分がばからしく思えた。
彼は何かを確信したようににやりと笑うと、雨は滝のような豪雨に変わり、辺りを白くけぶらせた。男の姿は雨の幕の向こうに消え、視界はほぼないに等しい。息をするのも苦しい土砂降りの中、ローラは遠くで唸る竜の声を聞いた気がした。
強く雨が降り注いだのは一瞬で、雨の幕があくと、赤い髪の男が飛び出してきてローラの腕を引いた。それから彼は、ガーネットたちに向かってコインを弾き飛ばした。
再び聞こえる竜の声。けれどそれは、頭上で獲物を探す雷鳴だった。
「さあ、あとは天に祈りな!」
男が投げたコインはゆっくりと弧を描いて、雨粒を散らしながら宙を舞っていた。
ガーネットは朦朧とする意識の中、重たくなる剣を握り上げたとき、ふと顔を上げて、雨の中に何か光るものを見た。どこかまがまがしさを持つ光りに、ガーネットは本能で軍人たちに背を向け、足元で威嚇するオパールを拾うように抱え上げた。いつの間にか水の張った石畳の上を、もがくように退避する。
コインが、軍人たちの真上に到達したとほぼ同時に、稲妻が空を割った。
竜のごとき雷鳴が灰色の世界を震わせたあと、路地には数人が倒れていた。落雷から間一髪逃れたガーネットは、きょとんとしているオパールを下ろして彼等の様子を伺う。
軽く火傷を負ってはいるものの、意識ははっきりとしており、すぐに手当てをすれば問題はなさそうだった。雷が直撃したというのに、これだけ軽傷で済んでいるのは奇跡としか思えない。
起き上がろうとする男に手を差し伸ばすと、すぐさま払いのけられてしまった。始めにガーネットを突き飛ばした男だ。彼等はぎろりとガーネットを睨むと、お互いに肩を支えあって雨の向こうへと去っていった。
口の中に溜まった血を吐いてから、一人放心状態のローラを見つけ、彼女の手を引いて軽食屋に入った。客は騒ぎに巻き込まれることを恐れ、我先にと店から出て行ってしまったようだ。店主にタオルと温かい飲み物を頼む。
店から転がり出てきた女給がどうなったのかを尋ねると、乱闘の最中に店主が中に引き入れて、今は店の奥で休ませていると教えてくれた。何でも、女給は軍人から金を借りていたが、どうしても返せなくなってしまい、代償として娘をよこせと言われたのだと言う。子供は高く売れるからだそうだ。
雨は依然と降り続いていた。人気のない室内に雨音が染みる。
血だらけでぼろぼろのガーネットと、呆然とするローラに、手を振るものがいた。赤い髪の男だ。彼もまたびしょ濡れで、暖炉の前の席を陣取っていた。
「あの人」
ローラがそう小さく呟く。
男は自分の家のようにどっかりと椅子に座ったまま、寒々しい室内の雰囲気をぶち壊す声量で喋りだした。
「しかし災難だなあ。軍に絡まれるなんて。ところでお前、その怪我は大丈夫か?」
血と泥まみれで顔に青痣をつくるガーネットは頷いた。
すると横からローラが身を乗り出し、甲高い声で男に突っかかる。
「あなた、どういうつもり?」
「どういうつもりって?」
「ふざけないで下さいよ。さっき賭けがどうとかこうとか言っていたじゃないですか。何事かと思えば目の前に雷が落ちて、気がついたらあなたはいなくて、ここでこうして暖をとっている」
「こんなに寒いんだぜ。そりゃ暖かいところに逃げ込むさ。今日は最後の雨だろうな。きっと次からは雪が降るぞ」
「そんなことは聞いていません」
「あ、賭けのことか? その男が助かったということは嬢ちゃんの勝ちだな」
「賭けのことを聞いているのでもありません!」
タオルと暖かい茶を持ってきた店主に目もくれず、ローラは何を言っても聞く耳を持ちそうにない男を睨み続ける。
「軍も追っ払えて、女給の子は無事で、結果良しとしようぜ。あの雷に感謝しなくちゃな。ここに社を建てて、風邪を引きませんようにって祈ろうぜ」
「軍を追い払った? きっとあいつらは仕返しに来るわ、そういう連中だもの」
「じゃあ、軍が仕返しに来ませんようにって祈ろう」
軽口ばかり言う男に対し、ローラの癇癪もそろそろ限界に近い。
「そう苛立つこともないだろう? それとも、あそこで突っ込んで、くたばっていればよかったでも言いたいのか? ずいぶん過激じゃあないか。まるで倒軍組織の連中みたいなことを言うんだな」
ただの偶然だろうが、組織の者のようだと言われ、ローラは何も押し黙ってしまった。明らかに動揺するローラにガーネットはタオルを渡し、茶をすすめた。
そんな様子を気にすることもなく、男は二人をまじまじと見つめて吹き出した。
「それにしても、二人ともずいぶんとひどい格好だな」
顎に手を当てて下から上へ目線を動かし、特にガーネットの姿を見て眉をしかめる。血と泥で頭の先からつま先まで汚れ、いつに受けたのか、左肩をざっくりと切られていた。ずいぶんと深いようで、水滴とともに指先から血が滴っている。
「おたくら、この後どうするの? そのままこの町を観光?」
再びローラの顔が険しくなる。
「医者を探します。とにかく、この人の怪我の手当をしないと」
その考えに、ガーネットは慌てて首を振った。
「だ、大丈夫。大丈夫だから」
「大丈夫なわけがないでしょう。それでなくとも、森から逃げるときにも怪我をしているんですよ」
「あの時の傷は治った。これもたいしたものじゃあないから」
ガーネットの真っ赤に染まった左腕を見て、ローラは首を振る。
「こんな傷を負って、大丈夫なわけがない」
医者に行く行かないの押し問答の最中、ルビーが二人の間に割って入った。
「なんとまあ、丁度いいことに医者ならこの近くにいるぜ。さあ、彼女の言うとおり医者のところへ行きな。こんなところでくだばっちまったら、この店の看板に傷がつくことになるぜ。夜中に血だらけのでかい男の幽霊が出るってな」
「でも、金を持っていない」
必死に抵抗するガーネットの、ルビーは軽くあしらう。
「この店の片付けが終わったら、見舞いに行ってやるよ。なあに、傷付いた英雄さんを見捨てるほど、オレは冷たい男じゃあないぜ。それに、オレはその娘と賭けをしてね。賭けたものを支払わなければならない」
「さあ、早く行きましょう」
とガーネットはローラに引きずられるようにして、雨の通りに連れ出された。
店から診療所までは三つ建物を挟んだところで、ルビーの言う通り目と鼻の先だ。雨は先程よりも激しさを増し、滝の中にでもいるような轟音が身を包む。
ローラはドアを叩くが、中から人は出てこない。雨の音で気づかないだろうかと思い、今度は強めに叩こうとした時だった。
「やめてくれ……」
背後で、死人のような声が聞こえた。すぐさま振り返ると、濡れた長い前髪の隙間から虚ろな青い目が覗いていた。雨に打たれ、彼は小刻みに震えていた。
「傷を、見られたくないんだ」
雨音に呑まれてかなり聞き取りにくいが、彼は懸命に目で訴えかけてきた。
懇願する姿にローラは何も言わず、扉からそっと離れた。
「すまない、身勝手なことを言ってしまって。それに、あんたに心配な思いまでさせてしまって、申し訳ない」
「わたしこそ、余計なお節介だったわ。ごめんなさい」
うな垂れるガーネットが、次第に可哀想に思えてきた。これだけひどい怪我を負っているというのに、そうまでして傷を見られたくないのだろう。何か、知られたくないことでも抱えているというのか。
「おいおい、こんなところでなにやってんだよ」
と雨の中から赤い髪の男が現れた。雨の中で立ちすくむ二人を見て、男は不可解そうに眉をひそめる。
「あの、どこか休める場所はないでしょうか。この人、どうにも医者に見てもらうのは嫌だと言うので」
「はあ? 小さな子供じゃあるまいし……。まあ、嫌なものは嫌か。仕方ない、オレの泊まっている宿に来るといい。おい、歩けるか?」
ぼうっと俯くガーネットの耳元で男が叫ぶと、世話をかけてすまないと小さく謝った。
男の肩を借りて歩くガーネットの後ろを、ローラとオパールは黙ってついていった。
ガーネットは赤い髪の男よりもずっと背も高く、背中も広いが、その後姿は悲哀に満ちていて、雨の中に消えてしまいそうだった。
9/21 細かい部分を変更。