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情念の石  作者: At
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005

 ローラが仮眠を取っている間、ガーネットは警戒を怠らなかった。けれども森の方から誰かが追ってくることも、丘の上の村から食べ物が盗まれたと降りてくる者は居なかった。

 ガーネットのお気に入りである本を枕に、ローラは寝息も立てず深く眠り込んでいる。そこで、ガーネットは怪我をした箇所の具合をみるために、手に巻かれた布をほどいた。黒く固まった血がこびりついている。しかし傷口そのものはふさがっており、固まった血を取り除けばすっかり元通りとなっていた。その様子を不思議そうにオパールが覗き込み、ふんふんと臭いをかぐ。

「奇妙なものだろう」

とガーネットは傷が消え去った手で犬の背中を軽く叩いた。

 さらに腹部と肩の布を取りさると、こちらの傷もすっかり治っていた。ただ思っていた以上に深く切りつけられたのか、腹部の方はうっすらと傷あとが残ってしまっている。

 そうこうしているうちにローラが目を覚まし、気分はどうかと尋ねる。

「ずいぶんと、良くなりました」

まだ顔色は良くないが、いくらか声に生気が戻っていた。

 秋の乾いた心地良い風が駆け抜けていく。枯れ草がそよぐ野で、二人は呆然と天高く上る巻雲を眺めていた。

「あんたは、これからどうするんだ」

とガーネットは力なく少女に問いかけた。

「軍が追いつく前に、身を隠せるような場所に移動したいですね」

そうふらつく足で立ち上がる様子を見て、ガーネットはまごつきながらも、もう少し休めばいいと言った。

「あの森は人を迷わせる。そう簡単に出てくることは、できないと思う」

「でも、わたしたちはこうして迷うことなく森を抜けられたじゃないですか。迷いの森とか呪われた森とか、ただの噂に過ぎなかったんですよ」

「それは、俺があの森のことを、良く知っているからであって」

ローラはふと気がついたように、ガーネットの顔を見つめる。

「そういえば、あなたはあの森に住んでいたんですものね」

「ああ、まあ」

 妙な間が開いた後に、ローラは長身の青年に向き直った。

「わたしはセレナへ戻ります」

「街には軍がたくさんいる」

「でも情報を集めるためには、街に行かなくてはいけません。組織の仲間がどうなったのか気になりますから」

「話を聞くに、あんたを逃がすためにたくさんの人が助けてくれたんだろ。だったら、戻るべきじゃない、と俺は思う」

人に意見を述べることに対して慣れていないため、身を小さくして言うものの、冷静に考えてセレナに戻るという選択肢はとるべきではない。

 ローラは苦虫を噛み潰したような顔で、拳を握る。

「ここで逃げ出すわけにはいかないんです。今も尚、軍の圧制に苦しむ人はたくさんいます。誰かが、この時代を変えなくてはいけないんです」

枯れ草がざわつく中でも彼女の声は鮮明に聞こえ、強い眼差しは風上にある街の方角を見つめている。

 ガーネットは小さく息を吐いて、大人しく座っているオパールに目線を移した。

「わかった。あんたがそこまで言うのならば、引き止めない。けれど、ひとつ頼みたいことがある」

「なんですか」

「父は俺に、セレナで待てと言った。だからセレナまで、あんたに同行することを許して欲しい」

「それはやめた方がいいと思いますよ。あの町でわたしといれば、あなたにあらぬ疑いをかけられることになるわ。わたしは、もうこれ以上あなたに迷惑をかけたくないんです。ここからは別れて行きましょう」

かなり強い口調でまくしたてると、ガーネットは懇願するように、どもりながら訳を言い始めた。

「俺は、ずっと森の奥の入り江に住んでいた。だから、この世の中のことをまるで知らない。それに、一人でセレナに行くのは、心許ない。俺には、あんたが必要なんだ」

小さな子供ではあるまいし、とローラはあまり真面目に取り合おうともせず適当な返事をした。

 素っ気無いローラの態度に、ガーネットは瞼を伏せた。これからどうすればよいのかと途方に暮れ、肩を落とし、黙り込む。

 そんなガーネットの様子を見て、ローラははっとした。火傷のあとと相成ってずいぶんと強面で、言葉にはまるで緩急が無く感情がないが、自分の言動でどうやら傷つけてしまったらしい。まともに話も聞かず、適当にはぐらかした自分が恥ずかしくなり、そしてもう一度わかったと頷いた。今度はしっかりと、彼の顔を見て。

「ありがとう。きちんと話を聞いてくれる人でよかった」

ガーネットは安心して、ふっと口の端を緩める。

「そのかわりと言ってはなんだが、街にいる間、俺はあんたを護るよ。武術には心得がある。疑わしいかもしれないけど」

「疑いなんてしませんよ。だって軍に囲まれたとき、あなたがいなければ今頃捕まっていたもの」

 一息ついたあと、ローラは険しい顔を緩め、改めてガーネットと向き合った。

「では、お願いします」

「頼りないかも知れないが、約束する」

ガーネット天を仰いでから、少女の手を取って誓った。

 発した言葉は不思議な韻を踏んだもので、現代の言語とは似ても似つかないものであった。ガーネットがよく読んでいる、失われつつある古代の言葉。

 ぽかんとして目を丸めるローラは首を傾げた。

「誓いの一文ですか?」

「そうだな」

「こういう言い方は失礼かもしれないですけれど、今時珍しいなあと。誓いの一文を唱えられるほど、昔の言語に精通した人はもういませんから」

ガーネットは特に気に留めることもなく、外の世界はそれが当然なのかとぼうっと考えた。



 それから、ガーネットはローラとオパールに道を指し示してもらいながら街を目指した。

「あんたは、これから向かう街に長く住んでいるのか」

無愛想に尋ねると、彼女は首を振った。

「一年くらいです。それまでは帝国全土をサーカス団に勤めながら渡り歩いていました」

瞼を伏せてから、切り替えるようにガーネットの顔を覗き込む。

「ガーネットさんは、ずっとあの入り江で暮らしていたんです?」

「物心がついた頃から」

遠くの土地へ行ってみたいという好奇心はもちろんあったが、それよりも両親の"森から離れてはいけない"という言いつけが、長く少年の好奇心を踏み潰していた。今こうして森から出てしまうことは、少年の頃から踏みつけていた好奇心の芽を覚まさせるものであり、同時に罪悪感を覚えるものであった。

 始めてみる遠くかなたの山の青い影を眺めていると、広い道が見えてきた。さらに道なりに進むと、石造りの建物が見えてきて、すれ違う人々が増えてきた。街に入れば、ガーネットは好奇心を抑えることができず、店先に並ぶよくわからない道具や、通り過ぎていく人のさまざまな格好を目で追った。

 初めて見る人の多さと建物の多さに、空が狭く見える。同じ狭い空だった黒い森とは、全く雰囲気が違う。活気ある騒音の波がガーネットを襲った。胸を押さえると、足元の白い犬が心配そうにこちらを見上げていた。

「大丈夫」

と小さく呟いて、先を行くローラを追った。

 かつての国境近くにあるこの街は城郭都市としての名残があった。街の中枢は高い壁に囲まれ、その周りを雑多な建物が寄生するよう広がる。帝国軍の拠点でもあったために、今でも町のあちこちでは軍人が多く見られた。

 元々この帝国は王族が統治する国であったが、いつの間にか軍が政治に介入し、軍部が絶大な権利を持つ国家となっていた。特にこの五十年年ほどは軍の評判はすこぶる悪く、わけもなく領土拡大のために隣国と戦争を繰り返すため、国民はひどく貧しい生活を強いられていた。軍にはむかう者は片っ端から捕まえられ、見せつけのために市中で処刑されたり、北の鉱山で過酷な労働を強いられたりすることがままあった。

 道すがら、ローラからこの国の現状を知らされたガーネットは、今まで自堕落な生活を送ってきた自分が恥ずかしく、情けなかった。ローラを含め多くの人々が苦しんでいるときに、自分は――――。

「なんだか、雨が降りそうですね」

ローラの重たい声に、建物に囲まれた狭い空を見ると、灰色の雲が右から左へとうねりながら流れていた。いつの間にか辺りは暗く、二人のいる路地には薄闇が垂れこんでいる。

「とにかく、わたしが借りていた家に早く行きましょう」

時折光る灰色の雲の中に、巨大な竜の影が見えた気がした。

 空の様子ばかり気に掛けていると、突如雷鳴にも似た悲鳴が路地に響いた。

落雷とほぼ同時に、一瞬視界が白く焼けた直後、すぐそばの軽食屋から女が転がり出てきたのだ。運よく傍にいたガーネットは、倒れる女性を反射的に受け止め、さらに店から飛んできたグラスをはたき落とした。石畳に破片が飛び散り、左手から薄く血が垂れる。

 見た所、女性はこの店の女給のようであった。

「大丈夫ですか」

駆け寄るローラが二人に声を掛ける。しかし、女給にとって偶然通りかかった二人などまったく眼中に無いらしく、ひたすらに体全体をがちがちと震わしていた。聞き取れないうわ言をもらしながら、見開かれた瞳は店の中に向けられている。

 その視線の先を辿ると、揃いの制服を着崩した連中が不機嫌そうにぞろぞろと現れた。胸元には星鉱石の徽章が光っている。ふと、ガーネットは村で見た軍人達を思い出した。

「運がよかったな」

彼等は高圧的な態度で胸を張り、せせら笑う。

「雨が降る前にさっさと帰るぞ」

「待ってください!」

ガーネットの腕から飛び出すと、女給は軍人の足にしがみついた。

「娘は、娘だけはやめてください! あの子はまだ幼い子です。私はどうなっても構いませんから」

「しつこいぞ女! 金を返さないお前が悪いのだろう? 娘はお前の無能さ故に失うのだ。恨むなら自分を恨め」

溺れる者のように必死で足にしがみつく女給を、目障りだと軍人は蹴り上げようとした、その時。

 湿った風が辺りを吹き抜けた。異様な風の流れに軍人の男が顔を上げると、眼前には火傷のあとを持った青年が腕を後ろへと引いて身構えていた。

 思考と思考の間の出来事。状況がようやく飲み込めた人々が見たのは、軍人が宙に飛び固く冷たい石畳に体を打ち付けた所であった。

 震える右腕を下ろし、殴りつけた余韻が引くのをガーネットは待った。

「今、殴ったのを誰だと思っている」

軍人の言葉に何も返さず、波一つ立たない青い瞳がただじっと見下ろしている。軽食屋の窓から野次馬の心配と不安、好奇が混ざった視線が集まる。

 額に青筋をたてる軍人はガーネットの胸ぐらを掴みあげた。

「ずいぶんと田舎からでてきたようだな。ここでの礼儀ってものを教えてやるよ」

腫れた顔をさらに歪ませて笑うと、軍人はガーネットを突き飛ばし、追い討ちにと鳩尾を蹴り飛ばした。視界が歪む衝撃と共に、喉の奥を焼いて胃液が口内に広がる。

 それを機に、他の取り巻きも寄ってたかってガーネットに暴行をくわえ始めた。飛び交う汚い言葉の中で、雨のごとく降り続ける暴力。地面に額を擦りつけ、石畳に赤い血と雨の雫がぽつぽつと染み入るのが目に入る。

 反撃することも可能だったが、何より気分が乗らなかった。朝、ベッドから出るのが億劫なように、とてもやり返そうとする気が起らない。女給が蹴られそうになったときは、考える間もなく体が勝手に動いていたというのに。

 倒れこむガーネットの長い髪を捕まれ、無理やり顔を上げさせられる。激しくなる雨が爛れた頬を伝い、瞼の上が切れ、血が目に流れ込んで開けることができない。

「ひどいツラだな。よく表を歩けるものだ」

 すると、石畳を叩く雨音に混じって、聞き覚えのある力強い声が聞こえた。その正体を確認する間もなく白い光が駆けつけ、軍人のふくらはぎに牙を突き立てた。オパールはがっぷりと軍人のふくらはぎに噛み付き、その痛みのあまり軍人はガーネットから手を放した。ガーネットはどさりと水しぶきを上げ、地面に顔を打ち付けた。

「この犬!」

他の男が犬を剣で殴りつけようとするのを見て、ガーネットはうつぶせの状態から身をよじり、オパールに覆いかぶさった。くぐもった音が後頭部に重くのしかかる。眼下のオパールは物言いたげに、歯を食いしばるガーネットに鼻を近づけた。

 ついに誰かが真剣を抜き、雷光が刃に反射する。ガーネットは仕方なく家から持ってきた鉈を抜いて、彼らと対峙した。

 軽食屋には相変わらず野次馬がこちらに好奇の目を向けている。まるで見世物でも観るように、あくまで他人事としらを切っている。

 誰もガーネットを助けようとする者がいない中、ローラもまた自分自身が無力であるが故に、助けに行けないことが何よりも悔しくて、腹が立って仕方が無かった。悲惨なこの状況を見守ることしかできないローラは、とうとう憤りのあまり篠突く雨の中へ足を踏み出していた。

 けれどその足は、ガーネットのもとに届くことはなかった。激痛が腕を掴んで、大量の雨をのんでむせ返る。

「ずいぶんと血の気が多いようだな。ん?」

勢いよく引き寄せられ、濡れてまとわりつく髪を払って振り返ると、へらっと笑う男の顔があった。鮮烈な赤い髪が目立つ、いかにも軟派そうな男だ。

「ここは嬢ちゃんの出る舞台じゃあないぜ」

そう土砂降りの中で、赤い髪の男は軽薄な笑みを浮かべていた。

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