004
しばらく追っ手たちの声が聞こえていたが、やがていつもの静寂な森の姿を取り戻した。青い闇が満ちた、陰気な森。特に深夜となれば、その不気味さはなおさらであった。
ガーネットはローラを下ろすと、握っていた鉈を鞘に収めた。
「荒っぽいやり方で、すまないな」
「そんなことより、怪我が」
ローラの震える声に、首を傾げる。
そこで始めて自分の姿を見ると、肩と腹の周辺の服は赤く染まり、手のひらからは血液が滴り落ちていた。
早く手当てをしなければ、と慌てるローラをガーネットは不思議そうに見つめる。
「大丈夫。これくらい」
と言うが、彼女はまったく聞く耳を持たずに、スカートの裾を引きちぎった。
「ま、待ってくれ……。なにも、そこまでしなくても」
「止血は大事ですから!」
有無を言わせず彼女はガーネットの太い腕を掴みあげて、手のひらに手際よく布を巻きつける。こうして見ると、ローラはただ華奢なだけではなく、筋肉のついた引き締まった腕をしていた。女の子にしてはずいぶんと鍛えられた無駄の無い体つきだ。とはいえ大柄なガーネットの腕と比べれば、その太さは半分ほどしかないが。
するとまたスカートの裾を引き裂こうとするので、ガーネットは慌ててやめさせなければならなくなった。見ず知らずの女の子の服を破かせるのは、気の進むものではない。仕方なく、ガーネットは長い裾を鉈で裁って、腹部と肩に巻きつけた。
「これで、いいか」
止血を施した箇所を見つめるローラは、まだ納得していない様子で曖昧に頷いた。
それから、二人は森を抜けるためにゆっくりと歩き出した。やはり行き倒れていただけあって、ローラの足取りはふらふらと危なっかしい。ガーネットがせっかく用意した食事も、突然の襲撃で台無しになってしまった。ローラはもはや気力だけで前へと足を運んでいるようだった。
「背負ってやろうか」
と声を掛けるが、彼女は頑なに拒む。
「これ以上、あなたに迷惑をかけるわけにはいきません」
凛と透き通った声も、今では隙間風のようだった。
「こうなったのも、わたしのせいなのだから。自分で責任をとります」
黒い木々の先を見てずいずいと歩く姿は、蝋燭の最後の燃え方を彷彿とさせる。
「あんたの、せいなんかじゃない」
先導するのはガーネットであるはずなのに、いつの間にかローラを追う形になっていた。
「軍は、わたしを追ってきたんです」
予想外の発言に、ガーネットはおずおずとどういうことか尋ねた。
「この森の近くにあるセレナという町で、わたしは軍に反発する組織に入っていました。ある小さな事件から発展して、暴動の騒ぎとなったのですが、すぐさま軍によってみんな取り押さえられたのです。わたしは直接今回の事件にかかわっていないのですが、軍はこれを気にと危険因子である組織の取り締まりに乗り出しました」
ガーネットはいまいち理解のできない曇った表情であったが、この帝国は軍による統治に代わって以来、悪政が続いていた。当初、軍に反発する者は多かったが、武力をも辞さない軍の弾圧に数を減らし、今となっては、軍への不満は心の中で押し留めておくのみとなっている。そんな中で唯一この悪政をどうにかしようと活動を行っていた集まりも、ローラの言うように軍によって壊滅の危機に瀕している。
森と海に囲まれ、世界から切り離された土地で育ったガーネットは当然外の世情については疎く、知識がなかった。
「わたしは多くの人の助けがあって、なんとかセレナを逃げ出すことができたのですが、軍はどこまでも追ってきました。そしてついに、追われに追われこの森にやってきたんです。軍に捕まらないためには、もう森に逃げ込むしかありませんでした。わたしとオパールは、仕方なくこの黒い森に飛び込んで…………。あとはご存知の通りです。やはり迷いの森ですから、あちこちと彷徨い、わたしは疲労と空腹で倒れてしまいました。そこを、あなたに助けてもらったんです」
彼女のいきさつを知ったガーネットであったが、それでも彼女が原因で軍が襲撃してきたとは考えにくかった。なにせ、あの入り江は黒い森の深部にあり、かつ白い海もすぐ目の前にある。黒い森も白い海も人を殺す魔の地であり、わざわざ命の危険を冒してまで、娘一人を深追いするとは思えない。それともこの娘はガーネットが思っている以上に、軍が森に飛び込むほど捕まえたい、危険な人物とでもいうのだろうか。
ローラの横顔を眺めるが、やはり儚いおぼろげな少女だ。喋らなければ。
「俺が思うに」
ガーネットは虫の羽音よりもか細く呟く。
「一概にあんたのせいとは言い切れない。とにかく、今はこの森から出なければ」
おぼつかない足取りのローラを見て、ガーネットは言った。その様子を、犬のオパールも心配そうに見上げる。
一刻も早く森を出て、休息を取る必要があった。残してきた父や魔女のことが気になるが、父は軍に所属していた経歴がある。おそらく、父ならばうまくあの場をやり過ごすことができるだろう。もしかすると、もうすぐそこまで自分たちを追ってきているのかもしれない。彼は別れ際に、セレナという町で落ち合おうと言った。そう啖呵を切ったからには、何か算段があるのかもしれない。
そう思うと、気分が沈んだ。何年も繰り返してきた同じ日々。それがこの夜に一転したのだ。この少女と出会ったことによって。
なんの前触れもなくやって来た転機は、幻想のように一瞬で過ぎ去ってしまうものなのかもしれない。それでも確かに、ガーネットの心はいつにない変化を喜ばしいものだと歓迎していた。そして同時に、父が追いつかなければいいのにと願う自分に気がつき、罪悪感で胸がつかえる。ここまで不自由なく育ててくれた親であるのに、わずかながら邪魔だと感じている。なんて親不孝な子なのかと自分を責めるが、森の外に向かう足の速度はむしろ増していた。
長く押し殺してきた外の世界への興味と目の前に降り立った少女への好奇心が、体を突き動かす。それでもガーネットは何度か後ろを振り返った。
二人と一匹は夜通し歩き、森を出る頃には、青い闇を艶やかな黄金の朝日が払いつつあった。郷愁とまではいえないが、生まれ育った土地を離れることはいささか感慨深いものを感じる。魔女といつも待ち合わせていた場所を通り過ぎると、天上を覆い尽くす黒い枝は数を減らし、紅に染まった朝焼けの空が顔を覗かせた。
まるで子どものように天上をぐるぐる見回すガーネットに、やつれて眼窩が落ちくぼんだローラは力なく言った。
「近くに、漁村があるんです。一休みしませんか」
そこでガーネットは魔女の言っていたことを思い出した。村にはセレナから逃げ出してきた組織の残党を捕まえるために軍がうろついているのだ。ガーネットは大きく首を振った。軍に追われている彼女にとって、村は危険すぎる。腹をすかせた猛獣のすむ洞穴に飛び込むような行為だ。
しかし休息が必要なのは確かであった。おそらくローラはもうずっと何も口にしておらず、夜通し森の中を歩いているのだ。
森とは反対の丘の上を見ると、石造りの小さな集落が見えた。あれが、魔女の住んでいた村かとぼんやり考える。ガーネットたちがいるところから大して離れてはいないが、これ以上村へ近づけば軍に見つかる危険は高い。
「俺があの村へ食料を買いに行くこともできるが、なにせこの見た目はあまりにも目立つ」
と爛れた顔をしかめる。それでなくともガーネットは世間知らずであるし、自分のようないかにも怪しい大柄な男がうろうろしていれば、即座に警戒する軍人に呼び止められるに違いない。
すると、今まで大人しくついてきていたオパールがガーネットの膝を小突いた。どうしたのかと視線を落とすがそこにはもう白い犬の姿はなく、顔を上げれば、ローラの制止など無視して丘の上へと駆け上がって行った。
「いい子なんだけれど、もう少し言うことを聞いて欲しいものだわ」
とローラは愚痴をこぼしてその場にへたりこんだ。ついに気力の限界がきてしまったらしい。
あたふたと何をどうしていいか分からないガーネットは、その場でおろおろと回って、天を仰ぎ、懐に入れっぱなしだった本を枕にして少女を横に寝かせた。
こうなれば、やけになるしかない。一か八か村へ行って食料と水を調達する。もし軍に怪しまれるようなことがあれば、どうにか立ち回って切り抜けるしかない。森へ逃げるときも何とかなったのだ。今度もうまくいくはずである。なんとか腹を決めたガーネットが丘の上の集落を睨むと、ぱたぱたと降りてくるものが見えた。
それは紛れもなく先ほど勝手に走り出したオパールで、見知らぬかごを咥えて二人のもとへと戻ってきた。彼はローラの枕元にかごを置くと、自慢げに尻尾を振る。
呆気にとられている二人は、かごにかかった布を取ってさらに驚いた。焼きたてのパンと蜂蜜の入ったビン、そして水で満たされた皮袋が中に入っていたのである。
おそらく、誰かが用意していた昼飯をくすねてきたのだろう。ガーネットはオパールの賢さに改めて感嘆した。今思えば、ローラとガーネットを引き合わせたのもこの犬のおかげであった。ローラを助けるため、オパールは暗い森を駆けてガーネットを呼びに来たのだ。
盗みは良くないが、この状況では悠長なことは言っていられない。ローラは少し困ったような顔で、犬の頭を撫でてやった。
すると、なにやら犬が口元をもぐもぐさせていることに二人は気がついた。褒められて油断したのか、オパールの口からぽろりと黒いかけらが落っこちた。干し肉の欠片だ。
「ちゃっかりしているわ」
とローラは笑って、あなたもそう思うでしょうと言うようにガーネットに視線を向ける。
ずっと固かったガーネットの表情がわずかにほぐれて、はにかんで下手くそに微笑み返した。