002
本棚の谷間に埋もれるベッドで、ガーネットは眠れずに何度も寝返りを打っていた。小さくぼろな家だ。炊事場の方から話し声が聞こえる。最初こそ聞かないようにと、本棚から適当にとった古本を眺めていたが、灯りがないために当然読めるはずもなかった。
森の外へ出ることが許されないガーネットにとって、この本が世界そのものだった。
幼い頃より本が好きであるが、読むものはひどく偏っている。もう読める人がほとんど現存しない、古い文字ばかりの本を好んで読むのだ。その概ねは古代の神話であり、学者の教えであり、伝記だった。そして、部屋にある本のほとんどは内容が同じだ。けれども、記されていることは書物ごとに若干の差異があり、そうした些細な違いを見つけるのもまた楽しみであった。
以前、現代語の書物を読もうとしたこともあるが、物覚えがひどく悪いせいか現代語は全く読むことができなかった。数ページ目を通しただけの現代語の本は、がたつく他の本棚の調整をするための下敷きになっている。
炊事場がある方へ、寝返りを打った。話し声はまだやみそうにない。魔女と父は、いったい何を話しているのだろうか。この自室から聞き取ることは難しいが、どうせ聞こえていたとしてもその内容は理解できないだろう。
それにしても、家に人が二人以上いるのは奇妙なものだった。いつもは父と暮らし、父が用事で森を出るときは魔女がこの家に泊まる。この家には常に二人しかいない。けれどもそれは裏を返せば、ガーネットが一人でいるときがないということでもあった。
ガーネットは、こうして眠れないのも家に三人もの人がいるせいだと思い、お気に入りの小さな本を棚からとって懐にしまった。
窓の外を見れば、今晩は月が綺麗な夜だった。本を読むには十分な明るさだ。眠れない夜というのは、いくらベッドで寝返りをうっても眠れないものだ。それならばいっそ、眠らなければいい。日が昇るまで有意義な時間を過ごした方がいいに決まっている。
シーツをぐちゃぐちゃに跳ね除けて起きると、ガーネットは自室の窓から外へと忍び出た。別にやましい理由があるわけではないが、炊事場での話し合いを邪魔しないようにと考えた、ガーネットなりの配慮のつもりだった。
穏やかな風が海からそよぎ、伸ばしっぱなしの髪を梳く。普段は軽く結っているが、寝るときは適当に横で縛っていた。
濃紺の空は快晴で、白い三日月がぼんやりと浮かんでいる。海の方へ下っていくと、月光が水面を白々と輝かせていた。岸壁に囲まれた入り江の浜は小さなもので、さらさらと波が打ち寄せる。耳奥で波の砕ける音が響き、少しだけ眠気を誘われた。
こんなにも美しい海を眺めていると、海が人を殺すことが嘘であるかのように思えてくる。森の外の世界はきっと広いだろう。しかし、こんなにも海の近くで住んでいるのはおそらく自分たちだけだ。漁師でさえも、港からは離れた場所に集落を築くと聞く。
森のそばではなく、海が見えるところに家があればなあ、とガーネットは密かな願いを抱いていた。けれどこれ以上家が入り江に近い場所にあるとなると、父や魔女が潮風の被害を受けることになる。そしてなにより、二人は死をもたらす白い海に近寄ろうとしない。
当然といえば当然だ。むしろ平気で浜に下りていくガーネットの方が、多くの人々からしてみれば異常であった。
ガーネットは波が打ち寄せる際に腰を下ろし、持ってきた本を開いた。文字というよりも絵に近いものが延々と連なっている。文字の一つ一つを丁寧に目で追って、あるまとまりごとに分けてその意味を理解していく。本を読み始めると、書面に入り込むように大きな背中を丸め、周囲への意識が全て遮断されるほどに集中してしまうのが癖だった。ひとたび読み始めてしまうと、明かりさえあれば昼も夜もなく読みふける。もう何度も読んでいるせいで装丁が取れ、すっかり内容も頭に入っているが、それでも構わなかった。なにせ古い文字を通し、そこに記された人の意思を読み取るのが何よりも楽しいのだから。
ガーネットが夢中になって古代の人々の意思に触れている間、潮は満ちて、白い水が足先のすぐそばで迫ってきていた。防寒靴の先を何度か波が撫で、月は先程よりも低い位置に移動していた。
ふと突然、ガーネットは現実に戻って、勢いよく立ち上がった。足元の波を踏み、飛沫が真珠のように散る。
森のほうから、聞き慣れない音が聞こえた。闇夜を裂く咆哮。ガーネットの記憶が間違っていなければ、もう久しく聞いていない犬のなき声だ。ねずみでさえも寄り付かないこの森の、しかも最も奥に当たるこの入り江で、生き物の声を聞くとは思いもよらなかった。幻聴ではない。確かに、波音の狭間に犬のなき声が聞こえる。
目を細めて森の方を見ていると、ぴょこんと動くものがあった。犬だ。白く、かなり大きな犬。月光に照らされる白い体毛はまるで光り輝くようで、どこか現実離れした不思議な光景だった。まるで、夢の中でしか現れない、神獣の如き光輝を放つかのようだ。しかしよくよく見れば、顔つきはひどく間抜けで、体のあちこちは泥で汚れている。
犬はこちらの視線に気がついたのか、じっと立ちすくむガーネットを見つめ、わんと短く吠えた。思わず肩をびくつかせるガーネットであるが、その吠え方はまるでこちらに話しかけているようだった。
助けてほしい――。そう頼まれた気がした。
白い犬は太い尻尾をぶんと振って、森の方へ姿を消した。
ガーネットはいてもたってもいられず、犬を追うために駆け出していた。浜から駆けあがってくると、自宅の裏にある納屋に寄り、かけている鉈を持って森へと飛び込んだ。
邪魔な枯れ草を切り飛ばしながら、犬の声がする方へ向かう。あたかもこっちに来いと呼んでいるかのようだ。ガーネットは犬に導かれるまま蒼黒いも進んでいくが、頭の冷めた部分では自分は何をやっているのかと呆れていた。それでも足は止まることなく犬を追い、鉈を握る手は障害物を切り落としていく。
服を引っ掛け、顔や首元に切り傷をつくりながら進むと、茂みの中からようやく犬の頭が見えた。まじかで見ると、神獣のような高貴さなど微塵もない、間抜け面の白い犬だ。
ガーネットが注意深く歩を進めると、茂みの中に何か白い物があることに気がついた。犬の足元に、白く輝くものがある。
首を伸ばして犬の足元を覗くと、そこには一人の少女が横たわっていた。
細く小柄な娘。鼻筋の通ったこの顔立ちは、見たことがない。白を基調とした衣服は、黒と蒼の二色に染め上げられた森の中では、ひどく異彩を放っていた。
犬はもう鳴くことをやめて少女の細い指を必死に舐めているが、彼女は応じることも無く、ただ横になったままぴくりとも動かない。ガーネットは彼女の元へ駆け寄り、小さな体を抱え起こした。
「しっかりしろ」
髪がはらりと額から落ちただけで、相変わらず反応は無い。花弁のように滑らかな頬には血の気がなく、色の失った唇で浅い呼吸をゆっくりと繰り返している。歳はガーネットと同じ十代後半くらいだろうか。儚い印象を抱かせる、おぼろげな少女であった。
固く瞳を閉じたままの少女を見れば、状況は決していいものではない。
微かに上下している胸は彼女が生きているという証なのだが、長い睫毛が小刻みに震えており、まるで死に際の人間のような様子である。腕は雪のように冷たくなっていた。
ガーネットは上着を脱いで少女の背中に被せると、彼女を背負ってすくと立ち上がった。痩せているせいか、背中に掛かる負担は小さい。
ひきかえそうと振り返ると、闇夜の中に人が佇み、行く手を遮っていた。海の底を思わせる、深く暗い視線。咽元を捕まれたかのように、息が止まる。
一言も発さず、父は立っていた。似ていない親子。こうして正面から見ると、血のつながりを疑うほどに、父と自分は似ていない。
「よそ者だな」
物腰の柔らかな口調だが、残忍な調子も帯びている。暗い森の中で、彼の持つ斧がぎらりと光った。
「犬の声を聞いたのは、御前だけではないのでな。家を出たとき、丁度森に駆け込む御前を見かけ、追ってきた」
白い犬は不安そうに、ガーネットの後ろへ隠れ、背負われている少女を見上げた。
「この子、死にそうです……」
背中の少女を庇うように、ガーネットはわずかに身を引き、父との距離をあける。
「放っておけ」
発せられたのは、たった一言だった。一言で片付けられたのだ。概ね予想がついていたにもかかわらず、その冷酷な一言は、胸に深く刺さった。氷の杭で打たれたかのような痛みが、ガーネットの顔を歪ませる。
「ジェイドに看てもらいます。放ってなんか、おけない」
「よそ者だ」
「でも」
「この森に入る奴にまともな者はいない。かかわらない方が賢明だな」
「とはいっても」
「加えて、犬までも連れている」
顔色ひとつ変えない父に、ガーネットは会話での説得は無理だと悟った。そこでガーネットは息を止めて目を瞑り、父の横をすり抜けて家の方へと一歩を踏み出した。
その途端、うなじに冷徹で残忍な気配が降りかかった。目線のみを後ろにやれば、父の持つ斧は少女の頭上で静止していた。
冬の凍てつく風のように、鋭く静かで、おそろしく冷たい声がかかる。
「話は終わっていない。それとも、俺に背中を向ける程、御前は強くなったつもりか」
心臓は狂ったかのように早鐘を打ち、少女を背負う手が震える。身体全体を、見えない鎖によってしばられているかのようで、瞬きすらできない。
すると父は、おもむろに少女の腕を無造作に掴みあげた。何かを確かめるかのように、両腕へ目を這わす。
生きた心地がしなかった。もしここで何か不都合なことがあれば、彼はどうするだろう。彼の持っている斧が、光もないのにまたもや光る。
「魔女が言っていた、街で暴動を起こした残党のようだな」
捨てるように少女の腕を放し、口角だけを上げて笑みを浮かべる。しかし、その細い目は少しも笑っていなかった。
薄気味の悪い笑い方をする辺り、少女への懐疑は薄れたらしい。
「運がいいのか、悪いのか。よもや彼女もこの森に人がいるとは思わなかっただろう」
「それじゃあ、この子を家に運んでも……」
構わない、と父は斧を下ろした。
ガーネットは安堵で大きく、けれども静かにゆっくりと息を吐いた。父を前にするといつもこうだ。心が休まるときはなく、心臓が縮んで弾けてしまいそうな思いの日々である。
犬がきちんとついてきているか、ガーネットは時折横を見ながら黒い森を進んだ。白い犬はとても忠実で、吠えもせずガーネットの横をぴったりと寄り添って歩く。少し邪魔と思えるくらい身を寄せているのは、後方よりついて来る父に怯えているからなのかもしれない。
父は元々軍人であり、代々軍の役職に就く血生臭い家系の生まれだとガーネットは聞いていた。なぜ今は戦線から退き、世界から隔絶された地にいるのかは分からないが、ガーネットはあえて聞くこともしなかった。軍人の経歴故か、寡黙で感情の起伏が極端に薄いため、冷酷な印象が付きまとう父に対して、気軽に話しかけることは気が進まない。
足元に温かいものがぎゅっと寄り添う。先導しているのは自分自身であったが、並んで歩く犬の存在は心をいくらか落ち着かせてくれた。
なるべく後ろの父のことは考えないよう、ガーネットが背中の少女を落とすまいと抱えなおした時だった。
「うぅ……」
耳元で細い呻き声が聞こえ、首に回される腕がゆるくガーネットの胸元を掴んだ。
「ここは」
見た目の儚さとは対照的な力強さを持つ声だった。ガーネットは俯いたまま、背中の少女にだけ聞こえるように囁いた。
「静かに。このまま気を失った振りをしていてほしい」
彼女は声を上げたり背中から飛び降りたりすることなく、じっと呼吸を繰り返していた。背を通して、彼女の鼓動が伝わる。
同意してくれたのか、少女は再度ガーネットの胸元を掴んだ。今度はいくらか力がこもっていた。足元の犬の足取りは少し軽くなったくらいで、大きく興奮することはなかった。本当に賢い犬だ。
背後の父はこのささやかな変化に気がついていないのか、一定の間隔を刻む足音に乱れはない。
ガーネットは額の汗を拭い、首に回される白い手を眺める。肉刺が潰れたあとが痛々しい。