戦いの幕間に
リーヴィアが薄い黄色の衣を靡かせてその山の裾野に降り立ったとき、目の前の戦場は既に血の海だった。
様々な形をした異形の怪物が、地平線の彼方まで折り重なるようにして絶命している。戦いの跡を見慣れているとはいえ、その怪物の数のあまりの多さと立ち昇ってくる血の臭気に、彼女は思わずその幼さの残る顔を顰めた。
そのままぐるりと戦場を見渡し、目当ての人物を探す。それはその山より遠く、地平線近くにひとりぽつんと立っていた。
「メイファン!」
踵部分の拍車に風を濃くまとわせ、即座に地を蹴って舞い上がる。高密度の風に翼のような形を取らせ、リーヴィアはそれ以上高度を上げず水平に飛んだ。
「メイファン! 無事か!」
リーヴィアが上から声を掛けると、じっと下を向いて立ち尽くしていた若い女――メイファンはのろのろと顔を上げて彼女のほうを見、力なく微笑んだ。漆黒の髪に白磁のような肌、純白の上着が今は大量の血を被り、その血の赤が儚げな容姿を凄惨なものに変えている。
「大丈夫よ、リー」
「だいぶ血を流しているように見えるけど……」
「全部返り血よ、私は無傷」
リーヴィアはメイファンの横に降り立つと、彼女の視線の先を追って小さく眉をしかめた。
「――侵略者たちじゃあ、ないな」
「ええ……」
視線の先には、絶命している虎のような怪物の腕がある。毛むくじゃらの太い腕の先に、どう見ても人の手としか思えない手が不自然に繋がっていた。
「また、ヤツだったか。しかもまた今回は凄い数が異形に変えられてるな」
メイファンは頷き、その儚げな美貌を僅かに顰めた。
「多分、山向こうの避難所を襲うつもりだったんでしょう。帝国跡地では一番人がいるところだから」
「元は人間なら私たちの感知には引っかからないってことか。今回はヤツが事前に気配を出していたから防げたけど……次があったら、怖いな」
メイファンがこの地に向かった原因の気配は一つだけだった、とリーヴィアは苦く思い出す。これで気配が無かったら、この異形の大群を誰も気づくことはできなかっただろう。
「そうね。この人たちが固まって行動していたのも良かったわ。四方八方から近づかれたら、きっと……私一人じゃ、絶対穴ができていたもの」
「……後悔してるのか?」
メイファンの言葉に僅かなためらいを感じてリーヴィアがメイファンの顔を覗き込むと、彼女は自嘲的な笑みを浮かべた。
「少し、ね。守るべき人間を、こんなにたくさん殺してしまったのだもの」
「メイファン、元人間、だよ。ヤツに変えられてしまった人が元に戻らないのは、もう実証済みだろ。それにこいつらを野放しにしてたら、山向こうの避難所の何万人もの人たちは間違いなく殺されてた」
「分かってる。でもやっぱり……戦って、人だった人たちを殺すのは、あいつらを殺すより何百倍も辛いわ」
リーヴィア自身もその気持ちは痛いほどによく分かる。同意の頷きを返し、リーヴィアは改めて辺りを見回した。
辺り一面、見渡す限り累々と横たわっている怪物たちは、おそらく皆、元は人だった。動物の形をしているもの、いくつかの動物の姿が組み合わさったようなもの、さらには見たことも無いような姿かたちのものもあるが……皆、体のどこかしらに人の面影を残している。
<深遠の淵>からの侵略者の一人が、取り込んだ人々を異形へと変えたのだ。
この世界と<深遠の淵>との接触は、かつて存在した大陸の統一帝国が残した、最大の禁忌の代償だ。その帝国は大陸の果てまでをくまなく支配し、侵略する土地が無くなったことに飽いた皇帝は異世界をも侵略し、その手中に収めんとした。彼は何百人という術師を総動員して異世界への道を拓く術の研究を完成させ、侵略の準備を固めた。そして、帝都にほど近い広大な平野で異世界接続の儀式を行ったとき――悲劇は起こった。
術者たちが完成させた術は、帝国のある世界と同じように神々が創ったという異世界とこの世界を繋ぐ術ではなく、神々が様々な世界を創るうえで不要であったり害悪となったものを次々に棄てていった結果生まれた、全ての世界から切り捨てられ全ての世界を憎むという場所――そこは<深遠の淵>と呼ばれていた――とこの世界とを繋ぐ術だった。<深遠の淵>の底に蠢いていた数多の棄てられた結果生まれたモノたちは、この世界からの接触に歓喜し、――この世界への侵攻を開始した。
その場に居合わせた皇帝や術師たち、異世界に攻め込まんと待機していた兵士たちは、<深遠の淵>からの侵略者たちによって瞬く間に虐殺された。勢いに乗った異形の侵略者たちはそのまま平野を超え、帝国の人々に襲い掛かった。圧倒的な力の差に人間はなす術も無く、貴族も役人も等しく虐殺された帝国はその機能を急速に失っていった。
「今回は……力、使わずに済んだのか?」
リーヴィアの視界に入る異形の死体たちの胴体には、皆一様に数本の大きな切り裂かれた傷がある。それはメイファンの扱う武器――両手に装着する合計十本の長大な金属の爪である――によるものだが、その他にリーヴィアが予想した、死体が一部欠落している状態にはない。
「ええ。私の力は、いざという時以外に使うには、世界への負担が大きすぎるもの。この人たちをこんな風に変えた元凶が出てくるかも分からない中で使えるものじゃないわ」
「それは……確かに。あんまり切り刻まれたら、世界も傷だらけになるもんな」
メイファンの力は、切り裂いた部分を丸ごと空間を歪めて転移させることで傷を治すことを難しくする、というものである。それは世界そのものにも当てはまり、一度切れて歪められた空間が元に戻るには長い時間が掛かるのだ。空間を元に戻すために世界の負担が増えるということは、それだけ<深遠の淵>からの干渉を受けやすくなるということを意味する。
「私の力は、この人たちをこんな風にして使ったあいつが出てきたときに、使うことになるはずよ」
メイファンは、血に塗れた両の手をリーヴィア目の前に掲げる。儚げな彼女の雰囲気の中に彼女本体の荒々しい気配を感じ、リーヴィアは思わず神妙な面持ちになった。
彼女たちは、人間ではない。世界の<深遠の淵>への接触によって<深遠の淵>からの異形の侵略者たちが大陸を蹂躙するさなか、帝国の属国だった国々の血を吐くような頼みに応えて一人の天才的な術師が作り上げた、対<深遠の淵>用の自我と、自身を最も効率的に扱うための人型の分身を持つ武器型の神器だ。その術師は、かつて世界を治めていた神々が遺したという奇跡の力を宿す金属を各地の神殿から譲り受け、それを材料に使って合計八振りの神器を世に送り出した。
それら八振りの神器たちは、元の金属に宿っていた力を引き継ぎ、それぞれひとつの要素を操る力を持っている。リーヴィアの本体、刃である<暁風天>は風を操る力を、メイファンの本体、両手に装着する巨大な一対の五指の爪である<牙狼天>は空間を操る力を、それぞれ持っていた。
「そういえばリー、東のほうは大丈夫なの?やっかいなのが現れていたと思うけれど」
異形の子どもの見開かれた両の目をそっと閉じて立ち上がったメイファンの言葉に、リーヴィアは視線を戻して大きく頷いた。
「エレインに任せてきた。あそこは鉱山地帯だ、あいつの本領発揮だよ」
神器の一振り、鉱石を操る神器の名を言うと、メイファンはリーヴィアがここに来て初めて、いつもの彼女らしい柔和な、少し困ったような顔をした。
「……作戦であなたに割り振られた相手でしょうに」
「それはそうだけど」
リーヴィアは口を尖らせる。
「これだけ飛べるのは私だけだし、エレインもあのタコとトカゲの混ざったようなやつを倒した後だったし、あの地形は私の力に合わないし、メイファンが心配だったし、」
「つまり、敵を倒したばかりのあの子を無理やりもう一回前線に運んで、あなたはここにサボりにきたの?」
「えーっと」
普段は大らかで大人しい姉に少し咎めるような目を向けられれば、リーヴィアは引きつった笑いを浮かべて目を逸らすしかない。
「いや、でも、その……メイファンが心配で飛んできたのは本当だよ。相手の特性も戦闘の規模も見るまで分からないし、山向こうは人間の避難基地だっていうのは分かってたんだから」
「ありがとう。でも、あなたが心配することは無いわ。全員きっちり……始末はつけたし、<牙狼天>たる私は負けられないもの」
ふわりとした言葉遣いの中ににじむ、世界と人間たちの守護者としての矜持を感じ取り、リーヴィアは少しばつが悪くなってふんと鼻を鳴らした。
「なら、いいけど」
<深遠の淵>からの侵略者たちにこれ以上この世界を破壊させないため、かつて帝国の属国であった国々は団結して事に当たった。天才術師に神器の作成を頼んだ後、各国の王や代表者たちはまだ侵略者たちの爪が伸びていない地方に本部を置いて連合政府を作り、侵略者撃退のための対策を開始した。
<深遠の淵>とこの世界を繋いだ術師たちは侵略者たちに惨殺されたため、新たな術師を集めて繋がりを断つための術式を研究させ、各国の連合軍を結成して神器が完成するまでの一時しのぎとして帝国と属国との境界線に配置し、帝国から逃げ延びてきた難民たちが暮らす場所を確保し、ひたすらに神器の完成を待った。
現在、天才術師から連合政府に贈られたリーヴィアたち八振りの神器はその本部を拠点としつつ、各地に出没する<深遠の淵>の侵略者たちを察知してはその地点に赴いて撃破することを繰り返している。まだ術師たちが繋がりを断つための術式を完成させていない今、それが連合政府や神器たちにできる最善のことだった。
「そろそろ、帰ろう」
日が傾いて空が見事な夕焼けになっているのを見、リーヴィアは山側へと踵を返した。
「主さまが待っているし、……エレインも心配だ」
「あら、やっぱり押し付けたことに罪悪感はあるのね」
「そりゃあ、まあ、うん。カリカの水鏡も見なきゃ、次に何か来るとも分からないし」
水を操る二番目の神器の能力である水鏡は、その場にいないものの姿を映すことができる。リーヴィアたちはこれを、事前の情報収集や作戦立案の要として大いに重宝していた。
メイファンはくすりと笑い、リーヴィアに手を伸ばす。
「じゃあ、行きましょうか。……連れて行って」
「了解。しっかり掴まって」
リーヴィアが手を伸ばし返すと、メイファンはその手を強く握った。
リーヴィアはメイファンに手を握られたまま、静かに目を閉じて集中する。次の瞬間、二人の周りに竜巻が吹き荒れ、その風に乗って二人は空へと舞い上がった。
「あなたみたいに全員が飛べないのって残念だわ。私一人だったら、途中何度か休憩を挟んだもの」
吹き荒れる強風の中でのメイファンの声に、リーヴィアは少し苦った顔で目を逸らした。
「そうでもないよ。下手に飛べるぶん、使い走りが増えて困ること請け合いだ」
「……もしかして、この間やけに各国に文書が早く行き渡ったのって、あなたが運んだの?」
「まあな。主さまと取り纏めの王の、行ってこいの一言で全部の国を回らされた」
恐る恐るといった風のメイファンに、投げやりに言葉を返す。
「それは、お疲れ様。確かにあれは特別に緊急だったけれど……戦力削って、何考えてるのかしら」
「全く、いい迷惑だったよ。……っと、少し高度上げるぞ」
山を越えるために体の回りの風を回転させ、さらに高度を上げる。一足先に紅葉の季節が来たのかと思うほど夕焼けで赤く染まった山肌を遥か下に見ながら一気に山を越えると、眼下にどこまでも続くようなテントの群れが見えた。帝国の領土から逃れてきた民たちが作る、一大難民キャンプである。
高速で流れる景色の中で、リーヴィアはふと一画に目を留めた。何やら木材や石で作られたような棒が何本も地面に突き刺さり、その前で人々が拝んでいる姿が見える。
(墓地、か)
そうか、人は簡単に死ぬものなのだ、ということを、彼女は改めて認識する。人でないがゆえに年を取ることがなく、神器ゆえに壊れることもない彼女にとって、人のそれはつい忘れてしまう、けれど彼女が守るべき存在としては悲しい欠陥だった。
「メイファン。もし時間ができたら、後でプロミネンスも連れて一緒に戻ろう」
だから、ふと先ほどの戦場にも思いを馳せ、炎を操る神器の名を挙げる。
「ミナを?どうして?」
「あの戦場を焼いてもらおう。あの元人間たちも、魂だけになって神の御許に行けるように」
「あら」
メイファンは驚いた様子で、目を見開いてリーヴィアを見た。
「そうね、そうしましょう。でも、珍しいわね、あなたがそんなことを言うなんて」
「別に……いいだろ。あそこに放っておいたら、避難所に疫病が流行りそうだし」
今まで思いつきもしなかったことだけに、言い訳じみた口調になってしまう。
「ああなったのはあの人間たちの責任じゃない。だったら、私たちが弔ってもいいって……思ったんだ」
リーヴィアの不貞腐れたような物言いにメイファンは微笑み、視線を前に戻した。
「優しいのね、リー。あの人たちが来世で報われるように、私も祈るわ」
「……ふん。悪いか」
「まさか。妹の物言いが嬉しかっただけよ」
「うるさい」
ふと東のほうを見ると、沈む太陽と対になるようにして月地平線から顔を出していた。
「今日の夜くらいは何事も無いといいけど、どうかな」
「期待はできないわね。まずはエレインを拾いに行きましょう」
侵略者たちの襲撃は、昼よりも夜に頻繁に起こる。
「うん。生きてるかな、あいつ」
「急ぎましょう。手助けも必要かもしれないわ」
「そうだな」
今夜は満月である。
二人は連合政府のある方角に向かって、太陽と月の真ん中を真っ直ぐに飛んでいった。
私の人生初の小説です。拙いところは多々あったと思いますが、少しでも楽しんで頂けたのなら幸いです。
それにしても、地の文が平家物語張りに漢字だらけになるの何とかならないかな……