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くびれ月の夜

 最終電車を降り、駅から家へと向かう道を歩く。ふと、月を見上げれば、今夜は確か満月のはずなのに、捻れて歪んでいた。

「ああ、そう言えばくびれ月の晩だったっけ」わたしは思い出す。ごくたまに、月がこんな風に醜くひしゃげてしまうことがあった。月という天体が実際に形を変えているわけではなく、一種の蜃気楼である。

「天文学者だったか、それとも気象学者だかが言ってたなぁ。大気に含まれる成分が、どうやらこの現象に関係しているらしいって」

 月光は肉色となって地上に降り注ぎ、空気の匂いすら変えてしまう。冷ややかな夜の世界は、かすかながら腐敗臭でかき乱される。

 臭いに敏感な者なら思わず鼻を押さえ、感じ取れない者でさえ、言葉にならない、漠然とした不快感を覚えるのだ。


 くびれ月を見たとたん、鼻の奥でねっとりとまとわりつくような臭いを感知した。

「嫌な臭いだ。家に帰ったら遅い晩ご飯にしよう、と思っていたけど、食欲が失せちゃったなぁ」シャワーを浴びたら、そのままベッドに入ってしまおう。

 店という店がすべて閉まったあとの商店街を、わたしは1人歩く。しんと静まり返った薄暗い通りに、自分の靴音だけが淋しく響く。

 洋品店と雑貨店に挟まれた、ネコ1匹がようやくくぐり抜けられるような隙間の奥で、何か赤く光るものがあった。

 電化製品の待機LEDよりも暗いその2つの点は、闇の中をふわり、ふわりと揺れ動いている。

「現れたか……」わたしはつぶやいた。正体こそ不明だが、あれもまた、くびれ月の産み出す不条理だった。


 あるアマチュア研究家は、それが生物だと主張する。よく見れば、赤い光の周辺には、闇よりもなお濃い、身体と思しきものが認められた。

 わたしがじっと見入ると、闇の生き物は逃げるように消え去っていく。何をするでもなく、ただ「そこに存在する」だけなのだ。

 大きさも姿形も様々。人に対して関心はないと見え、これまでに害を被ったと言う話も聞かない。そもそも、実体を伴っているのかさえ怪しかった。誰も触ったことがなかったし、そうしようという気にさえならない。

「気味の悪い連中だ」干渉してこないとわかっていても、心穏やかではいられなかった。


 地下通路に差し掛かる。頭上には、私鉄の線路が敷かれていた。等間隔に蛍光灯が設置されているのだが、昼間でさえ薄暗い。

 それでも、外の赤みがかった月の光よりはまだましで、心ならずもほっとする自分に気付く。

 地下とは言え、月の影響を帯びていることに違いはなく、それが証拠に、ところどころで暗い生き物と行き違う。

 通路の中ほどでは、モップの先によく似たものがうずくまっていた。人工照明の下、まるでそこだけポッカリと穴でも空いたかのように黒く、真ん中で赤い目が光っている。見つめていると、耳の奥でシィーンという高調波のような音が聞こえてくるのだった。

 わたしは、できるだけそちらに目を向けないように通る。前を行き過ぎる時、真っ黒い触手を素早く伸ばして、足首を捕まれるのではないか、そんな恐怖心がどうしても拭いきれなかった。


 地下通路を抜けきるまでに、10体近いそれを目撃する。ペット・ボトルほどのものもあれば、バケツ大のもいる。道の半分以上も占領している奴があった。そいつは巨大なファンの形をしていて、左右に離れた赤い目が、交互に点滅する。

 傍らを通る際、背中を壁に擦りつけるようにしなくてはならなかった。正直な話、生きた心地がしない。いっそ、引き返してしまおうかと考えたほどだ。

 すれすれまで接近すると、いきなりファンが回転を始める。心臓が飛び出る、などと言うけれど、まさにそんな思いだった。

 ファンはものすごい勢いで回り続けたが、そよ風1つ感じることはない。やはり、幻影に過ぎないのだろうか。


 再び、くすんだ月明かりの中を歩き出す。夜遅いとは言え、この時間ならまだ、人もそれなりにいるはずだった。

 ところが、クルマ1台通りかからない。

「やっぱり、今晩がくびれ月だからかな。誰だって、こんな薄気味のわるい町中なんか、出歩きたくないだろうし」そうと知っていたら、わたしだって、早めに帰って戸締まりをしていた。

 幹線道路沿いに出る。ここでも、自分の鼓動が聞こえるほどしんとしていた。ふだんなら、夜通し猛スピードでクルマが行き来しているのだが。

 点々と立つ街灯の青白い光は、くびれ月の照らす恐ろしい世界を、つかの間現実に引き戻してくれる。

 わたしは、次の街灯、そのまた次と目測を定めて進んだ。そうでもしなければ、目端でうずくまる妖しい闇にばかり、注意が向いてしまいそうなのだ。


 道路の向こうから、巨大な影が近づいてくる。トレーラーかと思ったが、はるかに大きかった。例によって、赤い目が付いている。それも、1つや2つなどではない。何十個も整然と並んで付いていた。

 大きさも尋常ではなかった。対向車線を塞いで、津波のように覆い被さってくる。

「すごいなぁ。あれも闇の産物か」恐怖を通り越し、もはや感動すら覚えた。

 ゴーッとという振動とともに、それが目の前を通過する。トレーラーどころか、列車のように長く続いた。これだけ大きなものが、時速何十キロもの速度で走って行けば、ものすごい風圧がかかりそうなものだが、意外なほど微風である。せいぜい、わたしの髪を揺らし、ほほをなでていく程度。

「まったくの幻ってわけでもなさそう。でも、きっと、身体を形作っている物質の構成が別物なんだろうなぁ」そんなことを推測する。


 列車は、たっぷり10分ばかりかけて走り去った。その方向は、まさしくあのくびれ月。途中までは地上を走っていたが、次第に軌道を上昇させ、いつしか天上を目指していた。

 遠くから、コラールが風に乗ってくる。歌声はだんだんと大きくなり、町の隅々へと漂っていった。

 辺りの様子が変わった気がした。どう変化したのだろう、と目を凝らして、ようやく気付く。

 これまで肉色をしていた光が、いつも通り、青く澄んだ輝きを取り戻したのだ。同時に、鼻先からは異臭も消える。道端で、ダマのように固まっていた闇の存在達も、さっきの列車と一緒に天に吸い上げられていったのか、すっかり姿をくらます。

 仰いだ先には、真ん丸をした月が浮かんでいた。美しく震える調べに包まれて、煌々と。

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