真夜中のマラソン大会
向かいのビルのデジタル時計は、0:27と表示していた。
そんな時間に、わたしは寒空の下、半袖短パンのランニング姿でガタガタと震えている。
わたしだけではない、大勢のランナー達が、片側2車線の大通りを全面開放したスタートラインに並んでいた。
「何も、こんな時間にやらなくたっていいのにな-」列の中から、そんなぼやきが聞こえてくる。
「仕方ないよ。この通りは、日中は混雑が激しいんだ。マラソンに使おうと思ったら、夜遅くなきゃだめさ」
「ま、いいか。どの道、このレースはおれがいただくんだからな」
「ほお、自信じゃないか。だが、言っておく。おれだって、準備万端、整えてきたんだ。簡単じゃないぞ」
歩道では、遅い時間にもかかわらず、見物客が溢れていた。
夜のビル街に、スピーカーの音が響き渡る。
「あと1分でスタートです。選手の皆さん、準備の方はよろしいでしょうか?」
わたしはガチガチと鳴る歯を閉め、心の中でうなずいた。
「スタートまで30秒を切りました……位置についてーっ!」パーンッと、ピストルがこだまし、わたし達は足並みを揃えて走り出す。
「さあっ、総勢3万6千人の選手が、一斉にスタートしました!」
ものの数十メートルと行かないうちに、早い者と遅い者との差がつき始めた。わたしは運動音痴だけれど、自分でも意外なほど足が速かった。数十人の先頭集団に混ざって、なかなかいいペースで足を運んでいる。
(だんだん、体が温まってきたぞ。この調子でゴールを目指そう)
走り出して15分ばかり、特徴的な電波塔が見えてきた。その先に、エイドが設けてある。
わたしは、片手にあんパン、もう一方の手でスポーツドリンクの注がれた紙カップを取った。交互に飲食をし、空になったカップは、歩道側へ放る。
(おばあちゃんが見たら、なんと思うだろう)わたしは思った。そして、なんだか可笑しくなってくる。(立ち食いでも、さんざんお小言を言われたのに、しかも最後には道端へ投げ捨ててるんだから!)
高速道路の高架をくぐる。クルマがビュンビュンと行き交う音が聞こえた。運転している人たちは、こんな夜更けに町中を走っているわたし達のことを気付いているだろうか。いや、たぶん、知らないまま行き過ぎていくんだろうなぁ。見えているものと言えば、道路脇を照らしている街灯や、まだ明かりの付いているビルの窓、看板くらいなもの。同じく走っていながら、まるで違う景色を眺めている。
それが、今はとても不思議なことに思えてならなかった。
ふと、斜め前を走る、緑のパンツの男性に目が行く。スタート前、自信のほどをうかがわせていたあの人物だ。負けじと並んでいるのは、自分にも策がある、と受け答えていた者に違いない。こちらは、紫のパンツを履いていた。どうやら、2人は対抗心を燃やし合っているらしかった。
一方が半歩抜きん出たかと思うと、次の瞬間には抜き返される。体格好もそっくりなら、スタミナまで互角と見えた。
(あれっ?)わたしは思わず、目をパチクリとする。2人の姿が、一瞬、獣の影と重なった気がした。(緑の人はインパラのようだった。紫の方はハイエナそっくりに見えたんだけどなぁ)
もう1度じっくり見つめるが、やはりただの人でしかなかった。
(そうだよね、どう考えたって気のせいだ)ホッと、胸をなで下ろす。
距離が半分ほどに達すると、体力の差がじわじわと現れてくる。わたしはだんだんと遅れ始め、いつの間にか先頭集団から外れていた。
こうなると、あとはもう、次から次へと抜かれていくばかりである。数えていたわけではないけれど、おそらく、すでに真ん中より後ろ辺りだろう。この先、追い上げることはとてもとても無理な相談だった。現状を維持することすら、難しいと感じていた。
次の補給場所では、スポーツドリンクだけを取る。さらに次など、水すら欲しいとは思わなかった。
考えることも億劫で、ただ機械的に足を動かしている。それが、今のわたしだ。
最後の直線に差し掛かった時、そのわずか10秒という短い時間さえ、果てしなく長く感じられた。ゼノンのパラドックスは普遍的な物理法則とすり替わり、わたしが半分の距離を走ろうとすると、さらにその半分を目指さなくてはならなくなると知り、くらくらと目が回り出すのである。
実際にはそんなこともなく、いつも通りに時が流れ、わたしの両足も適切な距離を数えていた。
ようやく、ゴールに辿り着いたのだ。
ラインを踏み越えたと確信すると、アスファルトの上に座り込む。ほてった体を冷やすには、そうするよりほかはなかった。
身と心が落ち着いてきた頃、なんだか辺りが騒がしいぞ、と気付く。優勝者をねぎらう声かと思ったが、違うようだ。それどころか、けんけんがくがくともめているらしい。
何があったのかと、人だかりがしている方へ赴く。
「このおれがドーピングだって? そんなばかなことはない。ちゃんと、調べてもらおうじゃないかっ」緑色のパンツの男が息巻いていた。
「こいつはどうか知らんが、ぼくはシロだぜ。さあ、すぐにでも検査をすればいい」こちらは紫の人。
「薬物検査を疑っているわけではありません。いや、それよりももっと悪いと言わねばなりませんな」審判員らしい男が言い放つ。
周囲のささやきからまとめると、あのあと先頭集団はさらに分断し、後半、緑と紫の2人が圧倒的なラスト・スパートでテープを切ったのだと言う。それも、ほんど同時に。
「どっちが勝者かって判断だったんだよな、初めは」
「うんうん。それが、どうも妙なことになっちまった。どうやら、インチキをしたらしいぞ、あいつら」
まだ先頭集団にいた時、ちらっと見えた獣の姿が思い出された。
「わかっているのですよ、あなた方が魔術を使ったということは」審判員は落ち着き払って言う。
「な、なんだよ、その魔術って」緑のパンツが突き返すように答えた。その声にはどこか自信がない。
「いいでしょう、ズバリ申し上げます。あなたはどこかで、モーフィングの魔法を習ってきたのです。おおかた、動物にでも化けたのでしょうな。足の速い草食動物、もしくはスタミナ抜群の肉食動物などにね」
緑と紫の2人が、同時にギクッとするのをわたしは見た。
「さらに、その姿を人に気取られぬよう、人間の皮を被ったのです。いや、今も被ったままなのです」
2人は、なおも言い逃れをする気配だったが、審判員の、
「この場で化けの皮を剥いでもいいのですが。もっとも、その場合、人にあらず、という理由から、保健所もしくは動物園送り、となりますが」
こう言われては、すっかり白状するよりなかった。