都電で乗り過ごす
都電に乗っていて、うっかり居眠りをしてしまったらしい。ハッ、と目を醒ますと、ちょうど電停が見えてきたところだった。「三ノ輪橋」と書いてある。
「あーあ、終着まで乗り過ごしちゃった」本当は、町屋駅前で降りるつもりだったのだ。
とにかく、いったん下車するよりない。
「まあ、いいや。せっかくだから、ジョイフル三ノ輪をぶらぶらして、オオムラでハムカツと焼きそばパンでも買って食べようっと」
都電を降り、アーケードに足を向けた。
この商店街は下町の色を濃く残し、昔を知る者には懐かしく、初めて訪れる者にはかえって新しい感動を味わわせてくれる。いつ来ても人がごった返していた。平日だったが、なんだか縁日にでも来たような気分になる。
わたしはここへ来ると、まっさきにオオムラというパン屋へ寄り、調理パンを2つ、時には3つばかり買う。それを近くの小さな公園で食べるのだ。
「おばちゃん、ハムカツと焼きそばパン、1つずつ」いつもは大勢並んでいるのだが、この日はたまたまわたしだけだった。
「はいよ、できたてだからね、おいしいよっ」
わたしは、紙袋に入ったパンを抱え、ついでに近くの自動販売機で、熱い缶コーヒーを買って、オーバーのポケットに入れる。
公園は、アーケードのすぐ脇にあった。ベンチに掛けると、コーヒーのプルトップを開け、パンに齧り付く。
そこへ、匂いを嗅ぎつけたか、小柄な三毛ネコがどこからともなく現れ、そろーり、そろーりと近づいてきた。
「おいで、ハムの切れ端を分けてあげようか?」わたしは、ハムカツからハムだけ引き抜いて、小さく切ってやる。
三毛ネコは欲しそうなそぶりを見せるものの、ある程度の距離を置いて座り込んでしまう。
「ほーら、どうした。要らないの?」そう、わたしが呼んでも来る気配はない。食べ物は欲しいが、人間と馴れ合いになる気などないらしい。
仕方がないので、その鼻先へと放ってやる。それを三毛ネコは、待ってましたとばかり、勢い飛び付き、あっという間に平らげてしまった。
「ずいぶんと腹ぺこだったみたいだね」わたしは三毛ネコに声をかける。「しょうがないなぁ、残りのハムも君に譲るよ」
わたしは、ハムカツからコロモを剥がして、再び投げた。さっきのよりもだいぶ大きかったけれど、たちまち胃に収めてしまう。
さらに見上げて、もっとくれと目で訴えるが、あるのは脂っこいコロモと、それを挟むパンだけである。焼きそばが残っていたけれど、ソースべっとりで、どう考えてもネコの体にはよくなさそうだった。
「パン、食べてみる?」試しにちぎって投げてみるが、クンクンと匂いを嗅いだだけであきらめてしまう。「やっぱ、食べないかぁ。ごめんね、もうあげられるものはないんだ」
言葉を理解したのか、小さく鳴くと、そのままどこかへ去って行った。
わたしは、パンとコロモだけの「ハムカツ」をじっと見つめる。
「パンにも味が染みてるしね。十分、十分」缶コーヒーと一緒に流し込んだ。
パンを食べ終え、今度こそ寝過ごしたりなどせず、町屋へ行こうと、電停に向かう。
ホームに来てみると、集まっている客達がざわざわ騒いでいた。
「あの、何かあったんですか?」近くのおばあさんに尋ねてみる。
「それがねえ、線路に水が来てしまって」そう言って、下を覗き込む。
目を落とすと、すっかり水位が上がってしまって、川のようになっていた。
「どこから入り込んできたんでしょうね」
「川ってたって、1番近いのは隅田川ですがねえ、そこまで7、800メートルはあるでしょう? かと言って、ほかにないしねえ。いったい、なんでこんなことになったんだか」
ほどなくして、電停に設置されたスピーカーから案内が流れる。
「早稲田方面をお待ちのお客様にご案内申し上げます。三ノ輪橋から荒川区役所前までの区間、線路が水没しております。お急ぎの方は、バス、地下鉄のご利用をお願いします」
「どうやら、しばらくは復旧しないようですね」わたしは言った。
「やれやれ、地下鉄に乗るより仕方ないねえ」おばあさんはおっくうそうに答える。ここからだと、ふつうに歩いて5分、おばあさんのあしでは10分近くかかるのだ。
ほかの客達は、そうそうに立ち去っていく。それぞれ、乗り場の算段が付いたらしい。
すると、再び放送があった。
「えー、大変、ご迷惑をお掛けてしております。まもなく、当駅停まりの臨時便が入って参ります。水しぶき等、かかりませんよう、ホームより十分、離れてお待ち下さい……」
「あれ? 電車、来るみたいですよ」わたしは言った。さっきの話では、水が引けるまでは休行だとばかり思っていたのに。
線路を確かめてみると、やっぱりまだ満々と水をたたえている。
「目張りなどして、中に水が入らないよう、応急に処置してくれたんですかねえ」おばあさんも、とりあえずはホッとしたようだ。
直線上に、荒川一中前の電停が見える。そこを、ライトも明るく、こちらへと走ってくる。
「来た来た、水が跳ねるかもしれないので、もっと下がって待ちましょう」わたしはおばあさんに注意する。
近づいてくるにつれ、なんだか見慣れない車体だぞ、と気付く。現行の車両は、緑色かワイン・レッドである。あの都電は深い青をしていた。
「あれって、最新型なのかなぁ」わたしがつぶやくと、おばあさんは、
「いやあ、ずっと昔はあんな色をした都電が走ってましたよ」そう答えるのだった。
けれど、骨董品級の古い車両を代替によこしたわけではないことが、すぐに判明する。
ザザーッと波をかき分けながら、臨時便がホームへと入ってきた。
「これはたまげたっ」おばあさんが目を丸くする。
「旧車でもなければ、最新型でもない。そもそも、電車じゃないんですねっ」びっくりしたのは、わたしも同様だ。
やって来たのは、箱形をした船だった。
「三ノ輪橋~、三ノ輪橋~。ご乗車、お降りの方は、足下に十分に注意願います~」運転席からそう声が響いてくる。「当電車、もとい船は、三ノ輪橋発、荒川七丁目停まり、臨時便です~。町屋から先、早稲田方面は、同駅にてお待ち願います~」
電停に残っていた人々が、プカプカと浮かぶ船に、次々と乗り込んでいく。
わたしは、おばあさんの手を引いて、乗船を助ける。
「このまま隅田川の遊覧でもしたくなりますよね」
「それもいいですねえ。また、そのうちこういう機会があったら、孫でも連れて乗りに来ようと思いますよ」
おばあさんはそう言って、うんうんとうなずくのだった。




