表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
81/234

地下室

 今日は東雲博士の講義だった。わたしは前の方の席で、中谷美枝子と並んで座って聴いている。

「人は誰でも、自分だけの『地下室』を持っています。そこには、本人すらもあずかり知らぬ、大いなる秘密が隠されているのです」

 ノートを取りながら、それって、ユングの言う「地下の大王」に関係があるのだろうか、などと考えていた。

 外から爆音が近づいてくる。マフラーをサード・パーティ製に替えた、大型バイクのエキゾーストだ。

「あ、吉村の奴、またこんな時間に――」誰かがそうささやく。小柄な女性なのだが、7850ccもある、大排気量のクルーザーに乗っていた。カウルには漢字で「鳩」と書かれていたっけ。

 音は裏の駐輪場へと移動していき、ほどなく講義室に派手な赤い革つなぎの人物が現れる。

「遅れちゃった、てへっ」吉村直美だ。言葉の割りには、ちっとも悪びれた様子もなく、後ろの方の空いている席へと身を滑り込ませた。


「……えーっと、どこまで話しましたっけ?」東雲博士は、べつだん気に留める様子もない。いつもの光景だったし、またそんなことをいちいち気にするような人物でもない。

「『地下室には個人の秘密がしまい込まれている』ってところです」誰かが告げる。

「そうそう、そうでした。この地下室ですが、人によってその広さはまちまちで――」

「教授、それはワンルームですか、それとも2DKですか?」吉村がすかさず茶々を入れる。

「えー、そうですね。それも、人によって異なるかと。そもそも、ここでいう『広さ』とは、概念に過ぎないのです。物質的な空間があるわけでなし、コンプレックスの大小、あるいは多少によっても変動があります」


「吉村さん、今日も飛ばしてるね」わたしは横の中谷にささやいた。

「あの人、あんなふうにふざけて見えるけど、勉強はできるんだよね。やっぱ、余裕のある人は違うな」中谷は溜め息混じりに返答する。

 中谷もわたしも、この「次元心理学」が苦手だった。精神をエネルギーとして捉えることを主眼とし、そこから導き出される四次元以上の世界を探求する、そんな学問だ。

「一応、欠かさず出席してるけど、単位もらえるかどうかわからないなぁ」わたしが言うと、

「あら、それなら、あたしなんて、もう3回も休んじゃってるよ。ただでさえトンチンカンなのに、今回は絶望的だな」またしても、深々と息を吐く。


「わたし、この地下世界と言うのは共有できると思うんです」吉村が立ち上がって、そう主張を始めた。

「ほう……それはまた、どうしてですか?」東雲博士は、牛乳瓶の底のような分厚いメガネ越しに、じっと相手を見つめる。

 てっきり、さすがの博士も、授業を妨害されたことに腹を立てたのかと思った。そうではなく、むしろ興味をそそられたらしいのだ。

「なぜって、ここにだって、地下室はあるわけでしょう? そこが単なる物置だ、なんて誰が言えるんでしょうか?」

「確かに資料室がありますね。授業が始まる直前、わたしはそこへ寄って、必要な文献を拾ってきたばかりです。いたって、普通の部屋でしたが」博士が物静かに答える。

「きっと、教授お1人で入られたからですわ」吉村はなおも自説を曲げなかった。「それは『教授の地下室』なのであって、わたし達のものではなかった。だから、ただの資料室だったんです」


「なるほど、筋道が見えてきました。つまり、ここにいる全員で入った時、くだんの地下室がどう変容するか、そういうことですね?」

「はい」と吉村。

「ねえ、中谷は地下室へ行ったことある?」わたしはなかった。それどころか、そんな部屋があることを、たった今知ったばかりだ。

「地下に続く階段があることは知ってる。もちろん、下りたことなんてないけど」

「もし、吉村さんの言う通り、本当にそれぞれの意識とリンクしてるんだったら面白いよね」

「でも、それって意識の『共有』って言うのとは違う気がする」中谷が言う。「だって、それぞれ別の部屋を持ってるっていうのが、教授の理論なんでしょ? だったら、一緒に覗いたって、みんな勝手な部屋に見えるんじゃないの?」

「そっかぁ。どうなっちゃうんだろうね」わたしは考え込んだ。もしかしたら、寝室のようなものなのかもしれない。部屋は同じでも、観る夢は様々だ。


「よろしい。では、試してみるとしましょう」博士がにっこりとうなずく。こういう柔軟な姿勢が、学生達から慕われる理由の1つなのだ。「では、みなさん。聴講はここまでにして、わたしと来て下さい。なんだか、童心に返って、わくわくとしてきましたよ」

 筆記具をテーブルの上に置いたまま、わたし達は席を立ち上がる。そそくさと先を行く東雲博士のあとを、ゾロゾロとついていく。

 廊下を端まで歩き、まずは1階へと下りる。いったん、建物の外へと出て、それから正面玄関ではなく、非常口の方から入り直さなくてはならなかった。

「地下室って、こっち側にあったんだ」どうりで、今まで気がつかなかったわけである。


 非常口の脇に、目立たない階段があった。

「なんだ、ここのことか」誰かがひそひそと話すのが聞こえた。「資料室っていうから、別の場所かと思ったよ。だって、この先にあるのは第2視聴覚室だろ? おれ、何回か連れてこられたことあるぞ」

「ばか言うな。ここはシャワー・ルームじゃないか。お前、バスケのあと、いっつも汗臭いまま帰ってたのか」

「違うわよ。ここは、医療品の保管場所のはずでしょ。ホケカンに出入りする業者が、箱いっぱいの荷物を持って下りていくところ、見たもの」

 それぞれが思い違いをしているようだ。だが、さっきも部屋に入ったという博士が「資料室」だと明言するのだから、ここは資料室なのだ。

 すると、前の方を下りている吉村が言う。

「わたしはさっき、ここが『物置』だって言ったわよ。講義室に入る前に、ちゃんと見てきたんだから間違いないわ。でも、『資料室』というのも正しいし、たぶん、ほかのみんなが言うことも合っているだろうと思うの」

 ざわざわと私語が広がる。


「吉村さんの言ってること、あんたわかる?」中谷が聞いてきた。

「ぜーんぜん」とわたし。「でもさ、開けてみればすっかりわかることじゃん。ほら、もう地下室の扉が見えてきた」

 扉の前では博士が立ち、ノブをカチャッと回すところだった。

「さてさて、ただの資料室が、みなさんの目にはどう映ることでしょうか」

 誰もが扉に釘付けとなる。ギィッと錆び付いた音を立てて、開け放たれた。

「ああ、これは……」真っ先に覗き込んだ者が、ほとんど同時に洩らす。

「何が見えたんだろう」わたしは、中谷とともに、急いで階段を駆け下りた。

「見て、むぅにぃ。あそこ、部屋の中、あんなになってたんだ……」

 1歩遅れて、わたしも目の当たりにする。


 色もとりどりの光が、まるで噴水のようにこんこんと湧き出ていた。光は玉となりしぶきとなって、絶えず弾け、再び塊となる。水滴をはらんだクモの網のようにキラキラと輝き、流れ星のようにスーッと行き交う。光の粒がどこかでハッと瞬くと、別の場所で呼応するように揺らめくのだった。

「これって、みんなにも同じものが見えてるのかなぁ……」心の中で思っていた言葉が、ふっと口をつく。

「たぶんね」そう答えたのは吉村だった。「わたしたち、今、精神そのものを見ているんじゃないのかしら」

「あるいは、われわれの意識が認識可能な、具現化された何か、とでも言うべきでしょうか」東雲博士があとを引き継ぐ。

「これがあたしたちの心……」中谷はうっとりと魅入る。

 すべて、互いに結びついていて、決して切り分けられないもの。「世界」そのものである存在。

 これがわたしの……わたし達の「地下室」だった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ