スナメリが部屋に上がり込む
外出から帰って自分の部屋に入ると、ベッドがもっこり盛り上がっていた。
「だ、誰っ、そこにいるのは!」
布団がわずかに揺れる。わたしはそっと台所へ引き返し、フライパンを取ってきた。
両手でフライパンを構えながら、じりじりとベッドへ近づく。敷き布団に手を伸ばすと、一気にめくり上げた。
フライパンを高々と振り上げる。「こいつめーっ!」
布団の中から現れたのは灰色をした、小柄な海獣だった。つぶらな目で、訴えるように「クゥーッ」と鳴く。
「ええーっ?! これって、スナメリじゃん!」わたしはフライパンを降ろして呆然とした。
「変だ、おかしい。なんで、こんなところにスナメリがいるんだろう」思わず目をこする。けれど、見間違いなんかじゃなかった。「ここが海から近いって言うんなら、まだわかる。だけど、電車で2時間もかかるんだよ。一歩譲って、電車に乗ってやって来たとする。さらに駅から15分、人目を避けて、どうやって来たって言うのさ。だいいち、歩くってったって、そんなヒレじゃ歩けっこない」
頭を抱えるわたしを、スナメリはさも不思議そうに見つめている。
「ねえ、君。言葉わかる? 人間のコ・ト・バ」手振り身振りを交えて、そう尋ねてみた。
「クウッ?」片方の胸ビレを持ち上げると、首を傾げてみせる。小さな子供が困り切っている様子、そっくりだ。
「わからないよねぇ、人間語なんてやっぱ」わたしは途方に暮れる。「さぁ、困った。どうしたもんかなぁ」
体長は1メートルちょっと。イルカなどと比べれば小さい方なのだろうけれど、抱えるにしても重そうだ。
「せめて柴犬くらいだったら、だっこして交番に連れて行けるんだけどな」110番に電話をして、引き取ってもらおうか。この忙しいのに、そんなつまらない用事でかけてくるな、って怒られるだろうか?
1人では案も浮かばないので、志茂田ともるに連絡をしてみる。
「もしもし、志茂田? ちょっと、困ったことになってて」
「どうしました? むぅにぃ君」携帯の向こうから、落ち着き払った声が聞こえてきた。それだけで、なんだかホッとする。
「ベッドにさ、スナメリが入り込んでるんだけど」
「はい? えーと、あの。申し訳ありません、むぅにぃ君。もう1度、お願いします」志茂田は聞き返した。
「だからぁ、スナメリ。ほら、いるじゃん。シロイルカを小さくしたようなのが」
しばらく沈黙があったのち、再び応答がある。
「確か、スナメリというのは海の動物ではありませんでしたっけ? なぜ、そのようなものがあなたの部屋のベッドにいるのでしょうか」
「そんなのわからない。逆に、こっちが聞きたいよう」泣き言が出てしまう。「どうしたらいいと思う? やっぱり、警察に連絡した方がいいのかなぁ」
「どうやら、本当らしいですね。警察ですか? いや、それは待った方がいいでしょう。どこかの水族館から誘拐してきたと疑われるかもしれませんしね」
「えっ、そんなの困るっ」わたしは慌てた。この近くで水族館なんて、どこかにあったかな。頭をフル回転させて考える。「2丁目の角、あそこは熱帯魚店だし、横町のは、えーと、魚屋か……」
「中央公園に、大きな池がありましたね。あそこなら、割と近いじゃありませんか」志茂田が言う。
「スナメリって、海に棲んでるんだよ? あそこ真水じゃん」わたしは反論した。
「いいえ、イルカやスナメリは、淡水でも生きていけるのですよ。お忘れですか? 以前、多摩川に迷い込んできたタマちゃんのことを。もっとも、あれはアゴヒゲアザラシでしたが。海獣というものはエラ呼吸をするサカナとは違い、融通が利くものらしいですね」
「そうかっ、じゃあ、きっとそこから来たんだ」問題が解決しそうだとわかり、ホッとする。
「ですが、むぅにぃ君。やはり、この推測はハズレのようです。距離にして300メートルほどですか。這って歩くにしても、遠すぎます」志茂田が、早々に自説を取り消す。「それよりも、道沿いの側溝を泳いできた可能性の方が高いですね。家のすぐそばにも来ているでしょう? 側溝が」
ふだんはコンクリート製のフタで覆われているけれど、道路脇を水が流れていた。昔、川だったものを用水路として整備したものだった。
「これって、どこから来て、どこへ行くんだっけ?」
「山あいや、雨水を集めて、荒川へ流すのでしょう。その荒川は、東京湾へと続いていますから、遡ってやって来ることは、十分にあり得ます」と志茂田。
「じゃあ、側溝にスナメリを放せばいい?」
「慌てないで下さい、むぅにぃ君。キンギョじゃないのですよ」そうたしなめられてしまう。「今から、そちらへ行きますから。いいですか、くれぐれも軽率な行動は慎んで下さい。わかりましたね?」
「うん、どっちにしたって、1人じゃ重くって動かせやしないしさ」わたしは言った。
およそ20分後に、志茂田がやって来た。
「さて、そのスナメリを拝見できますか?」
わたしは、志茂田を部屋に案内する。
「ほら、ベッドの上でのんきにごろ寝してる」
「ほほう……」志茂田は丸太のような海洋動物に近づいていって、まじまじと観察した。「あなたは、この生き物に触れてみましたか?」
「ううん、ぜんぜん。だって、噛むかもしれないじゃん」見かけは可愛いけれど、手を出せば暴れるかもしれない。用心をして、必要以上に近づかなかった。
「そうですか。では、気がつかなかったのも無理ありませんね」
「どいういうこと?」わたしは聞く。
「これはスナメリなんかじゃありませんよ。スナメリは身に砂が詰まっているものです。だから、ずっしりと重いわけですよね?」
「うん、知ってるけど」
「これは中に空気が入っているんです。エアメリですねえ」志茂田は判断を示した。
「えー、そんなのウソだ。エアメリなんて、聞いたこともない」わたしは言い返す。
「ウソなどついてなんになります」志茂田はそう答えると、エアメリを抱え、ひょいっと持ち上げてみせた。「これ、この通り。風船のように軽いものです」
わたしはそれこそ、言葉が出なかった。すると、海の生き物ではなく、どこか空をふわふわ漂ってやって来たのか!
「エアメリならば、こうして放してやればいいわけで――」志茂田は窓を開けると、やり投げの要領で放り出す。
エアメリは、きりきり舞いながら、遠く高く、飛んで行ってしまった。