毛布に飲まれる
明け方、寝返りを打ったわたしは、パジャマ姿で毛布の海原に投げ出されてしまった。
「あっぷ、あっぷ」危うく溺れかける。「あー、またやっちゃった。どうして、こう寝相が悪いんだろう」
ポリエステル100パーセントの波間でもがきながら、わたしは周りを見渡した。すぐ近くを、愛用の低反発枕がプカプカと流れてくる。
「しめた、これにつかまろう」枕にしがみついて一息をつく。
さあて、これからどうしたものか。
以前にも溺れたことがある。あの時は夏の暑い盛りだったので、タオルケット1枚しか掛けていなかった。それが幸いして、しばらく漂っているうちに、すぐ岸へと上がることができたのだ。
けれど、毛布ともなれば話は別だった。実際、こうして低反発枕をビート板にして泳いではいるものの、どこまで行っても島影すら見えない。
「せめて、船でも通りかかってくれればなぁ」わたしは途方に暮れた。立毛の波を振り返ってみる。ベージュの海に、ピンク色をしたバラの珊瑚礁が透けて見えた。
「あのバラは毛布の真ん中に描かれた模様か。すると、ここは大洋のまっただ中ということになるんだなぁ」どっちへ向かって進んでも変わりない、つまりはそういうことだった。
そもそも、方角の見当がまるで付かない。何しろ、この海には昼も夜もないのだ。あるのは、重く覆いかぶさる掛け布団の空ばかり。
「当てずっぽうだけど、右の方へ行ってみよう」小島でも見つかればラッキー、それくらいの期待でバタ足を始める。
ホコリを立てながらしばらく行くと、背後に気配を感じた。嫌な予感がして、そおっと振り返る。
三角形をした水色の背ビレが、毛布面からぬっと突き出ていた。
「で、出たーっ、フカだっ!」フカは、毛布をかき分けながら、ぐんぐんと迫ってくる。
わたしはバタ足に加えて、両手も駆使し、全速前進で逃げた。けれど、相手は海の生き物。泳ぐことが専門だ。見る見る距離を縮められ、あっという間に追いつかれてしまった。
「もうダメッ!」フカはベージュのしぶきを上げ、全身を表す。パックリと開けた真っ赤な口は樽でも一飲みできそうなほど。並んだギザギザの歯は、まるでノコギリそっくりだった。
ガブリッ、とわたしはひと飲みにされてしまう。
ところが、
「あれ? ぜんぜん、痛くない……」手で回りを触ってみると、キルティングの感触がする。「なにこれ、ふかふかのフカだ。恐ろしげに見える歯だって、ただのフェルトの詰め物じゃん」
もしかして、これって「フカフカ・ツナギ」じゃないだろうか。前にビンゴで当てた、サメの着ぐるみだ。要らないって言うのに、半ば無理やりに押しつけられたのだ。
確か、タンスの引き出しの、1番奥にしまい込んだはず。それが、なぜ毛布の海なんかに。
「あ、そう言えば、夕べ寒かったもんだから、引っぱり出したんだった。寝る前に、ベッドの上に脱ぎっぱなしだったか」やっと思い出した。
相手が着ぐるみだとわかれば、もう怖がる必要などない。わたしはフカの口を楽々とこじ開け、外に飛び出す。
「やいっ、フカフカ・ツナギ。今度噛みついてきたら、中綿を残らず引っぱり出してやるからなっ」わたしはフカに向かって脅しをかけた。
文字通り歯が立たないことにまず驚き、わたしの恫喝で畏れをなして泳ぎ去って行った。
「ふう、やれやれ。どうなることかと思っちゃった」わたしは再び枕にもたれかかる。
ホッとしたのも束の間、掛け布団の空の雲行きが怪しくなってきた。
「こりゃあ、荒れるなぁ……」暗澹とした気持ちになる。
クジ運は悪いクセに、こういう時の勘だけはよく当たる。次第に波がうねり始め、とうとう大嵐となって襲ってきた。
わたしと低反発枕は、それこそ木の葉のように揺すぶられ、回転させられ、高く持ち上がったと思うと、そのまま真っ逆さまに落とされた。
「ひーっ、助けてーっ! これなら、富士急ハイランドの『高飛車』のほうが、ずっとマシだよーっ!」恥も外聞もなく叫び続ける。
荒れ狂うこの海域は、もとはと言えばわたしに原因があった。寝ている間に暑くなって、毛布も掛け布団も蹴っ飛ばしたに違いない。そのあげくの大しけ、というわけである。
わたしは夢中になって枕にしがみついた。ここで手を放したりすれば、毛布の底へと引きずり込まれてしまう。
それこそ、毛布の海の糸くずになるのだ。
どれ位の時が経っただろうか。ぎゅっとつぶっていた目を開ける。耳もとでごうごうと鳴っていた波のうねりは消えていた。毛布は、ベッド・メイキングしたてのように平らで、しわ1つない。
「静かだ……静かすぎる」かえって、不安になる。
いつだったか、聞いたことがあった。
海の果てには、それはそれは深い断崖があって……。
「まさか、これって!」わたしは大慌てで、反対方向へと舵を切る。けれど、急な流れがそれを阻んだ。
毛布、掛け布団ともども、わたしはベッドの縁から落ちていった。