笑いのツボにはまる
柴崎佳織は本当によく笑う。箸が転んでも、丼が欠けても笑い出す。しまいには、石につまずいて転びながら笑っている。
「あんたって、本当にいつも笑ってるよね。いったい、何がそんなに楽しいわけ?」中谷美枝子はそう言いながらも、すでに口元を緩ませてた。
「何って、何もかもよ。世の中って、可笑しいことだらけじゃない」また笑う。
ふだんでさえこうなのに、アルコールが入ると、いっそうひどいことになった。
夏場、何人かでデパートの屋上のビア・ガーデンに行った時のことである。
「かんぱーいっ!」とグラスをぶつけ合う。2口、3口ばかり喉を湿らせた途端、まるで笑い袋のスイッチが入ったように、ゲラゲラと止まらなくなった。
あんまり朗らかに笑い続けるものだから、居合わせた関係のないテーブルまでも釣られ出す。そうなると、もうビールを飲んでいるどころではない。
誰1人、まだ酔いも回らないうちから、屋上では笑い声だけが響き渡った。
「あんま笑うと、将来、目尻や口元にしわができるぞっ」中谷のこの脅しも、柴崎にはまるで通用しない。
「あら、年を取れば誰だってしわくらいできるわ。いいじゃない、年輪だもの。人生を楽しんできたんだ、っていう証になるわ」老けた自分の顔を鏡に映す想像でもしたのか、ぷっと吹き出した。
「あんたってば、まったく」中谷もやはり笑いを堪えずにはいられなかった。
もちろん、その場でやりとりを聞いていたわたしも大笑いする。この人と一緒にいると、どんな嫌なことがあったとしても、心の底から吐き出してしまえた。
1年中ずっと正月、そんな雰囲気に包まれるのだ。
部屋で年賀状のお返しを書いていると、桑田孝夫から電話が来た。
「おう、むぅにぃ。正月料理も食い飽きたし、ファミレスでも行かねえ?」
「そうだね。久しぶりにお肉が食べたいと思ってたし、うん、いいよ」幹線道路沿いにある、いつものファミレスで待ち合わせた。
席に座って待ち始めてから、きっかり10分、遅れてやって来る。自分から誘っておいて遅れるなどマナー違反と、本来なら怒って然るべきなのかもしれない。けれど、幼稚園の頃から繰り返されてきたことなので、今さらどうとも思わなくなっていた。
「今日は早かったね」皮肉でもなんでもなく、わたしは言う。本当に遅い時は1時間くらい、待たさせる。
「ああ、外は意外と寒くってな。いったん出たんだけどよ、慌てて戻って着込んできた」ダウン・ジャケットを脱ぐと、さらにフリースのパーカーが現れる。襟元からは厚手のインナーが見えていた。
「本当に寒がりだね。運動したらいいんじゃない? あったかくなるよ」わたしは健康の面からも、そう忠告する。
「冬は着込めばいいんだって。じっと我慢してりゃあ、そのうち季節がめぐって春になる」
言ったところで、どうせムダだとわかっていた。
今日の桑田は終始、機嫌がよくなかった。年始参りで親戚を訪ねたことに原因があるらしい。
「お年玉なんぞ、どこのばかが考案したんだろうなっ。お前、今時、小学生相手つったって、1人5千円は渡さなきゃならねえんだぞ。あちこち回って、もう何万飛んだかわからねえ」ひとくさりぶつ。
「でも、自分達だって、子供の頃はさんざんもらってきたじゃん」まったくもって事実を、無慈悲に突きつける。
「わかってるんだ。わかっちゃいるんだがなあ、それでもなんか割り切れねえんだよ。大人になるってのは、つまらねえよな」
わたしは今年、ほとんど年始参りをしなかった。しようにも、毎年遊びに行っている親戚が、ハワイ旅行へ出かけてしまっていた。
いとこ達は、地元の別の仲間とスキーだし、近所に住む縁者とは年中顔を合わせているので、今さらという感があったのだ。
そんなこともあって、今回はお年玉をまだ誰にもあげていない。桑田の食べた分も、わたしが支払う義務があるような気がしてきた。
「年に1度のことなんだし、元気だしなって。今日は奢るからさぁ」
なんだか疲れて戻ってくると、今度は志茂田ともるから電話だ。
「お休みのところ、失礼します、むぅにぃ君」声の調子から、ああ、これはきっと、何か頼み事があるんだな、と察しがついた。
「どうかしたの?」とわたし。
「それがですね、1つお願いがありまして」
やっぱりね。
「どんなこと?」
「むぅにぃ君は、明日も確か休みでしたっけね。わたしなど、もう仕事始めなのですよ。困ったことに、KGB48の握手券付きチケットの販売が明日でして、しかも、会場でしか手に入らないというプレミアムなのです」
そう言えば、志茂田って意外とミーハーだったっけなぁ。
「代わりに行って、買ってくればいいんでしょ?」内心、面倒臭かったが、断る理由が思いつかない。
「おおっ、頼めますか。それはありがたい。この恩は一生忘れませんよ、むぅにぃ君」
何日かして、桑田と志茂田が、今度は2人そろってやって来た。
「今年はろくでもねえ」部屋に入るなり、桑田が言う。
「まったくです」志茂田までため息をついて同意する。
「いったい、どうしたって言うのさ」
「聞いてくれよ、むぅにぃ。金運祈願で評判の神社に願掛けに行ったらよ、その帰り、財布を落としちまって。中に、降ろしたばかりの3万が入ってたんだぜ、3万!」
「わたしなど、もっとひどいものです。先週、せっかくむぅにぃ君に取ってもらったチケットで、KGB48のイベントに行ってきたのですよ。ところが、肝心の握手会では、大鳥ちゃんの列に並ぶことができませんでした。こんなことってあるでしょうか?」
いい加減、もううんざりだった。なんでいつもいつも、わたしのところに文句を言いに来るのだろう。
「そんなの知らないって」わたしはついに爆発した。「どれもこれも、みんな自分達の問題じゃん。少しは柴崎を見習って、笑う練習でもしたらどうなのさっ?」
その晩、志茂田からメールが来た。
改めて新年会をするので、柴崎の家に来ませんか、という内容だった。
「昼間のが効いたかな。どーれ、ちょっと行って顔を見てくるとしよう」
柴崎の家に着くと、母親が出て、
「あ、いらっしゃい。みんな部屋に集まってるから、上がってちょうだい」と言われる。
「おじゃまします」と断って、2階を目指す。家の外からして、すでに笑い声が聞こえていたが、階段を1段上るたび、ますます賑やかさが増していく。
部屋のドアをノックすると、笑い声にあえぎながら、「どうぞ」という柴崎の声が返ってくる。
ドアを開けて、わたしはびっくりした。
「なんなのっ、みんなのそのかっこう?!」思わず叫ぶ。
信楽焼の大きな壷がずらっと並び、柴崎も桑田も志茂田も、すっぽり収まって、首だけのぞかせている。まるで、1人用サウナだ。
声を合わせて、ひっきりなしにばか笑いをしていた。
「来たなっ、むぅにぃ」桑田がどっと笑う。
「いらっしゃい、むぅにぃ」柴崎もゲラゲラと腹の底から絞り出す。
「やあ、先ほどは失礼しました。むぅにぃ君に言われた通り、こうして柴崎君の家に来てみたのですが――」志茂田はそこで辛抱できなくなり、笑いの発作に襲われる。
たっぷり1分は笑い転げ、息絶え絶えになったところで、続きを口にした。
「いやあ、大正解です。訪ねてみてよかった。アッハッハッハ……」
「笑いの渦」というものがあるとすれば、今まさに、わたしは飲み込まれようとしていた。抗いがたい力で引き寄せられ、ぐるぐると振り回される。
わたしは肩を振るわせて堪えたが、とうとう負かされてしまった。
「ぷ……ぷぷっ!」
わたしも「ツボ」にはまっていた。