新年のピアノ発表会
町の小さなコンサート・ホールで、ピアノ発表会がある。新年最初の会は、「わたしの町」というテーマで、オリジナル曲を募った。
今回、中谷美枝子もエントリーするので、こうしてやって来たのだ。
先週、招待の連絡をもらった時、わたしは尋ねてみた。
「テーマは何にしたの?」
「ちょっと深いよ~」中谷は自信ありげに言う。「この町ってさ、大昔にできた窪地にできたって言うでしょ?」
「うんうん、初詣の時、神主さんがそんなこと言ってたっけ。氏神のべへもと様がこしらえたんだよね」
「そうそう。天が落ちてきそうになって、それを片手で支えったやつね。
その時に踏ん張った足跡が、ここいらの窪地なんだって」
「あ、じゃあ、その昔話を曲にしたんだっ」わたしは気がつく。
「タイトルは『べへもと賛歌』。今回は、力入ってんだあ。絶対に聴きに来てよねっ」
ホールはけっこう、混雑していた。と言っても、あらかたが親族だったり、友人、知人である。プロによる演奏会でもない限り、一般の客がそうそう集まるはずもない。
受け付けでもらったプログラムを広げ、中谷の出番が来るのを待つ。午前の部の、最後の方だ。
小学生低学年の演奏から始まる。今回は、自作曲ということもあって、さすがに少なかった。
幕が開き、スポット・ライトに照らされたグランド・ピアノが現れる。
司会者が挨拶をし、最初の曲目を紹介した。
「それでは、要小学校3年2組、大沢香奈恵さんの演奏で、『南16番のフラウ』をお聞き下さい。ちなみにこの曲は、ピアノで弾いたものを、おかあさんが採譜してくれたのだそうです」
「南16番」というのは、公園にあるブロンズ製のアゲハチョウのことだ。町に住む者なら、誰もが知っている。この子もきっと、あの像がお気に入りなのだろう。
舞台の袖から、やや緊張した足取りで少女が歩いてきた。青いドレスに、ピンクの大きなリボンをお下げに結んでいる。
ピアノの前でペコッとお辞儀をすると、司会者に手伝ってもらいながら、イスに腰掛けた。
可愛らしい、弾んだ雰囲気の3拍子だ。子供らしい感性が、ギュウギュウに詰め込まれてる。大空へと飛び立とうとするアゲハチョウの姿が、目に浮かぶようだ。
わたしを初め、客席からは盛大な拍手が、惜しみなくおくられた。
続いて高学年による演奏が3曲。「噴水公園のメヌエット」、「ティラノサウルスのサンバ」、「夕日に染まる白髪橋」、どれも子供らしい、素直な発想と演奏だった。
中学生の部、高校生の部と終わり、いよいよ一般の部が始まる。その最初を飾るのが中谷の「べへもと賛歌」だ。
司会者が再びマイクの前に立ち、手短く解説をする。
「この曲は、わたしたちにも馴染みの深い、べへもと様にまつわる伝説から主題を取ったそうです。山をひと跨ぎするほどの大きな神様が、落ちてくる空を支えて、わたしたちを救ってくれたんでしたね。町の真ん中に建つお社は、べへもと様への感謝を込めて、今でも大切に守られています」
中谷が舞台に現れる。フォーマルな淡いピンクのワンピース、胸には落ち着いた茶色いバラのコサージュをつけての登場だ。なんだか、別人のよう。
くつろいだ様子でピアノに向かい合うと、鍵盤の上に手を乗せた。
ゆったりとしたテンポで、長調のメロディが奏でられる。春の野山を思わせる、のどかな曲調だった。中谷の弾くピアノは、これまでにも何度となく聴いてきた。けれど、こうしてじっくり耳を傾けるのは、初めてだ。
上手などという言葉すら、空々しく感じられるほど、見事な演奏だった。ピアノにはもともと自由な意思があって、それを妨げず導くことこそわが使命、そう念じているかのようだ。
曲はやがて、低音と高音とを行きつ戻りつしながら、不吉な色合いを濃くしていく。平行音程が繰り返され、たびたび現れる七の和音が、心を不安にかき乱す。
いよいよ空が落ちてくるのだった。
いつしか、わたしは自分がその光景を目の当たりにしていることを知る。
「空」とは、小惑星のことだった。太陽系の引力に引かれて、とうとう地球へその進路を向け始めたのである。遅からぬうち互いにぶつかり合い、暗黒の宇宙で塵芥と化す。
すると、闇の彼方から何かが近づいてきた。測るものさしはどこにも存在せず、いったいどれだけの大きさなのかを語ることは不可能だった。
わたしの視点は地上にあったけれど、それは人の目ではなく、「地球そのもの」であるらしい。その目で捉えたのは、カバにも似た獣だった。途方もない大きさでありながら、溢れるような温情をそこから感じる。命あるこの惑星を、なんとしてでも守ろうとしていた。
けれど、勢い増す小惑星に手を出せば、それは幾千もの欠けらとなってしまう。雨あられとなって地上に降り注げば、どちらにせよ、生き物は絶える。
地球そのものであるわたしは、その獣が次にどうするのかと様子をうかがった。
身じろぎする代わりに、全身を覆う体毛の1本をすらりと伸ばす。毛はしなやかに宇宙を走り、地球を目指した。
当時、まだ陸続きだった日本の、とある山へと到達するのをわたしははっきりと見る。想像を絶する巨大な獣から発せられた毛先は、それだけで山ひとつ砕き、押しつぶすのに十分だった。
地に這いつくばって生きる人々の目には、それこそ神の腕に映ったかもしれない。
たった1本の毛は、地球という星をさらに押し続け、小惑星の通り道を紙一重で突き動かすのだった。
こうして、恐ろしい厄災を免れることができた。
獣が地球から去っていくさまを、今度は人の目として眺めていた。
あまりにも大きいため、空を覆い尽くしている。日も照らさず、星のない夜が続く。
わたしは、ただひたすら眠り続け、夜明けを待った。3日目に目を覚まし、もう行き過ぎただろう、と天を仰ぐ。まだ胸元が通過しているところだった。
わたしは仰天し、そのまま気を失ってしまう。
まぶしい日の光がまぶたを叩き、再び目を開けたのは、さらに3日後のことである。
……最初の主題が奏でられ、わたしはハッと気がついた。リタルダンドで静かに曲が終わり、ここは演奏会場だった、ということを思い出す。
昼の休憩に中谷が席へ戻ってきたので、わたしは聴いた感想をありのまま話した。
「壮大な曲だったなぁ。宇宙をさまよう、巨大な優しい獣が地球を救う場面なんて、圧倒されちゃった」
ところが、当の本人はきょとんとした顔をする。
「何言ってんの、むぅにぃ。巨大な獣なんて出てこなかったよ。っていうかあたし、そんなの思い浮かべてなかったし。べへもと様って、ダイダラボッチみたいな巨人でしょ? 動物なんかじゃないよ」
けれど、わたしは確かに見たのだ。夢や幻などといった詩的な例えなどではなく、この目で間違いなく。
べへもと様は、きっと今でもどこか、宇宙の果てを旅しているのに違いない。
わたしはそう信じている。