もちずきん
年が明けて、一段と寒くなった気がする。今朝など、今にも雪が降り出しそうな雲行きだ。
「こんな日には、『もちずきん』が出るぞ、ばあちゃんがよくそんなことを言ってたっけ」朝食のテーブルで新聞を広げながら、父が言う。
「おばあちゃんって、おとうさんのおばあちゃん?」食器を並べる手伝いをしながら、わたしは聞いた。
「うん、そうだ。おとうさんが子供の頃、まだ茨城の実家に住んでた時、一緒に暮らしてたんだ」父は懐かしそうに目をつぶる。「けっこうな山ん中にあった屋敷でな。お前が生まれるずっと前に、平地の方へ建て替えてしまったんで、知らないだろうけれど」
つかの間、山の雪の原を走り回る、幼い日の父の姿が浮かんだ。居間では、火鉢の前にちんまりと座る、会ったことすらない曾祖母の姿が。
「もちずきんって、どんなものなの?」わたしは無性に知りたくなった。
「もちずんきか? まあ、一種の妖怪なんだろうな。うちの方の民話に出てくるんだ。正月の、それも雪が降った日にだけ姿を現すんだそうだ」
「どんなかっこしてるの? 悪い妖怪?」
「見たことないからなあ、そう言われても困るよ。ばあちゃんから聞いた話だと、全身が真っ白で、まるで雪のようらしい。怖い妖怪じゃないよ。食べ物をくれてやると、代わりにその長い舌でもって、ペロンと顔を舐めてくれるんだと。舐められると、その年は無病息災だと言われてるんだ」
「まるで、獅子舞のお獅子みたい」わたしは言った。
「そうだな。正月に出るくらいだから、縁起のいい物の怪なんだろう。それから、舐められた人は餅肌になる、なんて言い伝えもあったっけ」そう話を締めくくる。
昼前に、とうとう雪が舞ってきた。
「この分だと積もるなぁ」雪国の人にとっては珍しくもなんともない、それどころか、やっかいなものだろうけれど、わたしの胸はわくわくとはしゃぐ。都会では、数えるほどしか雪が降らない。降ったとしても、翌朝には、まるで幻のように消えてしまっているのだ。
昨日降ったあの雪は、夜のうちに観た夢だったのではないか、といつもがっかりさせられた。
窓から眺めているうち、うずうずする気持ちが抑えられなくなって、子供っぽいとわかっていながらも、上着をはおっていた。
お勝手の前を通り過ぎると、母が声をかけてくる。
「もうお昼ご飯なんだから、すぐに帰ってきなさいよ」
「うん、わかってる。ちょっと雪を見てくるだけ」
「おい、むぅにぃ。もちずきんに遇うぞっ」父がそう言ってからかう。
「別にいいよ。それに、いい妖怪なんでしょ?」わたしは軽く返して玄関へ向かった。
降り始めたばかりだというのに、植え込みや土の上はうっすとらと白く染まっている。
アスファルトはみぞれでべとべとで、通ったクルマの跡が、まるでレールのように続いていた。
空を見上げると、灰色の背景の中、削りかすのようなぼたん雪が、次から次と舞い落ちてくる。ほほに当たってはじわっと溶けた。ちょっぴりくすぐったくて、一瞬だけ冷たい。それがなんだか心地よく、いつまでも佇んでいたいなぁ、と思うのだった。
髪の毛に雪が積もっていくのを感じる。このままずっと立ち続けていたら、何時間か後には、きっと雪だるまと見分けがつかなくなるはずだ。
道の傍らに立つ雪だるまを見て、
「あら、誰が作ったのかしら。こんなに早く」と感心する人がいたとする。
ふいに雪が崩れて、中からわたしが現れたら、さぞかし驚くだろうなぁ。
そんな想像をして、独りクスッと笑う。
さすがに寒くなってきた。そろそろ家に戻って、お昼を食べよう。
さっき自分が歩いてきた足跡はとっくに失せ、もうみぞれなどではない、ふわっとした新雪で覆われていた。
「どんどん降ってくる。やっぱり積もるな。夕方まで降り続けば、くるぶしが埋まるくらい、高くなるかも」わたしはつぶやく。
次の角を曲がったら自宅、というところまで来て、電柱脇に立つ陰に気がついた。
「あの人も、雪が珍しくて、ああして立ってるのかな」初め、わたしはそう思った。
頭をすっぽりと包むフードもロング・コートも、何もかも真っ白。それこそ、雪だるまのよう。
すれ違う刹那、さりげなく横目で見たその顔まで、おしろいを塗ったように白い。
ハッとして振り返る。
フードだと思ったそれは、てっぺんにミカンを載っけた鏡餅だ。それを頭巾にして被っている。
「もしかして、もちずきん?!」思わず、呼びかけた。
もちずきんは、両手をゆら~っと突き出しながら振り向く。真っ赤な舌が口から垂れ下がっていた。
不思議と怖くはなかった。父から、悪い妖怪ではないと聞かされていたおかげかもしれない。
わたしはとっさにポケットを探る。あとで食べようと思って、そのまま忘れていたイチゴミルクのキャンディが指に触れる。
「あの、こんなのしかないんだけど、食べます?」キャンディをおそるおそる差し出した。
もちずきんは、わたしの手からそっとキャンディを取る。互いの指先が触れた。マシュマロのようだった。暖かくはなかったが、冷たくもない。
もちずきんは、キャンディの袋を器用に破いて、ゴックンと飲み込む。満足したようなうなり声が、喉の奥から洩れた。
お礼のつもりなのだろうか、長い舌をベロ~ンと伸ばすと、わたしの顔を舐める。こちらは生暖かかった。
もちずきんは、ふらふらと去って行く。
帰るなり、興奮気味にわたしは報告した。
「今ね、そこの角でもちずきんに遇っちゃった!」どうせ、誰も信じやしないだろうな、そう思っていた。
ところが、
「ああ、そうみたいだな」父はわたしの顔を見てうなずくのだ。
「そうね、あんたはこの1年、その顔で過ごすことになるのね」母までもそう答える。
わたしは自分のほっぺたをつねってみた。
つき立ての餅のように、うにゅーんと伸びるのだった。