クマの手袋
玄関先で、コートに入ったままの手袋を取り出す。
「外じゃ、北風がピューピューいってる。夜には雪が降るかも」
左手をはめ、次に右の手袋を突っ込んだ時、人差し指の先がむにゅっとつっかえた。
慌てて手を引き抜く。
「なんだ、なんだ? 生暖かくって、ごわごわの毛むくじゃらだったぞ」手袋を片っぽにはめたまま、右手袋の口を広げて中を覗いてみた。
奥の方に黒っぽい毛玉がちらっと見える。
「ネズミでも入り込んだかな」もっとよく見ようと、向きをあっちこちに変え、光が届くよう工夫する。
蛍光灯の光に照らし出されて、ようやく正体を突き止めることができた。
「あれれ、こりゃあクマじゃん。首元に白い模様があるから、きっとツキノワグマだ」
ざっと見た感じ、体長は1.5メートルというところだろうか。気持ちよさそうに、すやすやと寝息を立てている。
「さては、冬眠してるんだな。都会にクマが出るなんて思ってもみなかったから、すっかり油断しちゃった」
さて、どうしたものだろう。クマが出没したなんて知れれば、町中大騒ぎになるに決まっている。
「動物園に持って行って、引き取ってもらおう」
わたしは、右用の手袋をむりやりにはめた。人差し指がツキノワグマの腹の辺りにめり込み、中のクマが寝息混じりでグルルゥ、と呻く。わたしは知らん顔をして外へ出る。
電車を乗り継いで、最寄りの動物園までやって来た。
「あの、すいません」チケット売り場で声をかける。
「入園は、こちらの券売機で券をお買い求めください」受付のおばさんが事務的に答えた。
「あ、違うんです。こちらで引き取ってもらいたい動物がいて」
「はあ、どんな動物です?」
「これなんですけど」手袋を脱いで、中を見せる。
「これって、ツキノワグマですね? あいにく、うちじゃあもう5頭もいて、これ以上は飼うなって、園長から固く言われてるんですよ」すまなそうな顔で断られてしまう。
「そこをなんとかなりませんか? このままじゃ、手袋が使いにくくって困るんです」わたしは頼み込む。
「そうおっしゃってもねえ……。いえいえ、やっぱりダメです。わたしが叱られてしまいますから」
わたしはがっかりして動物園をあとにする。
「そうだ、うちの近所の精肉店。あそこに売っ払ってしまおう。確か、クマ肉は高級食材だったはず」うきうきと地元の商店街まで引き返す。
「こんにちは」とわたし。
「おっ、むぅにぃちゃん。らっしゃいっ、今日は何を持ってってもらおうか?」肉屋のおじさんが威勢のいい声を張り上げる。
「買いに来たんじゃなく、反対に売りに来たんですけど」わたしは言った。
「売りにだって? うちは肉屋だよ? 古本とかは買い取らないからねっ」警戒するように答える。
「違いますよ、クマ肉です。クマの肉なんです」
「ほうっ、クマ肉かい。で、それはどこにあるんだい?」
「この中に」手袋を肉屋に覗かせた。
「ツキノワグマだね、こいつは。まあ、クマ肉としちゃあ旨いんだが、でもなあ……」どうも歯切れが悪い。
「何か問題でも?」
「だってよお、そいつ、ただ寝てるだけなんだろ?」
「ええ、冬眠してるみたい」わたしはうなずいた。
「肉を売っていながら、こんなことを言うのもおかしいが、おいら、これでも虫1匹殺したこたあねえんだよ。ましてや、クマなんかさばけやしないや。悪いねえ、むぅにぃちゃん。ほかの店を当たってくれねえかい」
いっそ、今この場で絞めて渡そうか、などとも考えた。けれど、相手は自分の身長ほどもある大きな動物だ。それも、あの恐ろしいクマである。格闘の最中に、冬眠から醒めでもしたら、えらいことだ。きっと、反対にやられてしまうに違いない。
あきらめて帰るよりほかなかった。
とぼとぼと、うなだれながら歩く。
「そうだ、山から来たんだから、山へ返してやろう」はたと思いついた。
通りに出て、タクシーを拾う。
「どちらまで?」運転手が聞いてくる。
「ここから1番近い山の麓まで」
「じゃあ、40分ばかり走らなくちゃならないね。林の奥深くだから、人も車も少ない。帰りも送っていくかい?」
「ええ、お願いします」人里離れているなら好都合。春になって、クマが起き出しても安心だ。
タクシーに乗り込むと、シートにもたれかかって一息つく。
林をしばらく行き、これ以上クルマが進めないとわかると、そこでいったん降ろしてもらう。
「10分くらいで戻ってきます」そう断って、タクシーを待たせる。
どこに置いてくればいいだろう、と辺りをきょろきょろ探しながら枯れ林を行く。道はだんだんと細く薄くなり、しまいには落ち葉の原と区別がつかなくなる。
朽ちかけた倒木を見つけた。その一部がうろになっていて、雨風をしのいでくれそう。
「ここなら暖かいに違いない」わたしは右手袋を脱ぐと、逆さに振って、クマを取り出そうとした。けれど、中で引っ掛かっているらしく、いっかな落ちてこない。
クマの鋭い爪がフリースに食い込んでいるのかもしれない。
「むりやり引っ張れば、手袋まで破れてしまうかも。それに、せっかく眠っているのに、起こしちゃうかなぁ」
少し迷ったけれど、手袋ごと、そっとうろの中へ押し込んだ。ピンク色の仔ネコのワンポイントを上向きにして。
戻る途中、パラパラと雪が舞い始めた。この分だと、夜までには積もりそうだ。
「春になって雪が溶け出したら、また来るね。それまで、お気に入りのその手袋は貸しておいてあげるから」