南16番のブロンズ
「南16番のブロンズ、本当に今日かな?」わたしは聞いた。
「うん。だって、近所のおばさんがそう言ってたもん。昨日の夕方通りかかったら、もうほとんど最終段階だったって」やや興奮気味な様子で中谷美枝子が言う。
町を南北に横切る遊歩道、通称「川端公園」。昔は本当に川が流れていたそうで、埋め立てられて現在のタイル敷きとなった。
幅4メートルほどで、両脇はレンガのプランターになっている。ツツジやジンチョウゲなどが植えられており、春先には芳香を漂わせていた。
全長2キロばかりの細く長い公園で、ところどころに趣向を凝らしたモニュメントが建つ。それらとは別に、20メートル間隔で並ぶブロンズ像があった。カワセミだったり、人物だったりと、こちらも様々である。
それぞれのブロンズには番号が振ってあった。町の中心から北へ向かうものは「北1番」、「北2番」という具合に。
わたし達がこれから向かうのは、南側にある「16番目」の像だった。
「だけど、不思議だよね。もともと15番と17番の間って、台座しかなかったじゃん」つい去年の春をわたしは思い浮かべていた。台座のプレートには「南16番」とあるきりで、続くタイトルが彫ってなかったのだ。そもそも、台座の上にあるべき像そのものがない。
「うん、あれってあたしたちが子供の頃からなかったよね。うちのおとうさんにも聞いたんだけど、川端公園ができた時から空いてたんだって」
ずっと見慣れていたので、それが当たり前の光景だった。それが、去年の4月中頃、いきなり現れたのである。
もっとも、ほとんどの者がすぐには気づかなかった。あまりにも小さすぎて、見過ごしていたからだ。
「どこかの小学生が見つけたんだっけ」とわたし。
「そうそう。台座によじ登って遊んでたら、イボみたいなのがついてたとか」
ビー玉くらいの物が、真っ平らな台座の上に、まるで「生まれたように」できたいたと言う。
「誰かが瞬間接着剤でつけたんじゃないかって騒ぎになったなぁ」
「そばに植えられているカラタチの葉から、転げ落ちたのかもしれない、って言う人もいたね」
しばらく放っておくと、何とブロンズの玉が破けて、中からイモムシが出てきたのだ。もちろん、ブロンズでできている。
「まさか、アゲハチョウの卵だったなんてねえ」わたしは言った。
「本物はちょっと気持ち悪いけど、ブロンズのはかわいかったな」生まれたてのアゲハの幼虫を見に行った時、中谷は「かわいいっ!」を連発しながらなで回していた。
「でも、あれで動き回っていたりしたら、やっぱりゾッとするかもよ」わたしは意地悪くそう脅す。
「やめてよ。あれって、人が見ているところでは絶対に動かないらしい」
ブロンズ像は、真夜中にひっそりと、少しずつ成長していた。ただし、人がそばにいるといけないようで、一度、好奇心旺盛な研究家が夜通し観察した時など、ピクリともしなかったそうだ。
その後、何度も脱皮を繰り返しながら、どんどん大きくなっていった。実際のイモムシと違って、ゆっくりゆっくり成長している。
ブロンズ像だからそうなのか、それとも夜中にこっそり見に来る者があって遅れているのか、はっきりとしない。
そのイモムシも、秋の始まる頃、ついにサナギになった。まるで、より所の枝があるかのように、半ば斜め立ちとなって殻をまとっている。
いったん、サナギの姿になってしまうと、外からは何の変化もうかがい知ることができなかった。サナギの形をしたブロンズ像が初めからそこにあって、これからもずっと風雨にさらされ続ける、そんな気さえした。
「前に、小学校でアオムシを育ててたじゃん」わたしは当時を振り返りながら言った。「みんなして、早くサナギにならないかなって楽しみに待ってたよね」
「そうだった。でも、サナギになってみると、そのあとが長かったね」
このブロンズもそうだった。まる3月もの間、目鼻もわからない、面白みのない形を保っていた。
先週、サナギの背中に亀裂が入った、というニュースが町内の案内板に寄せられた。
さっそく見に行ってみると、すでに人だかりができていた。この数ヶ月を長く感じていたのは、わたしだけではなかったのだ。
かき分けるようにしてブロンズ像の前まで行き、サナギを観察してみる。頭の先から尻尾にかけ、真っ直ぐに裂け目が走っていた。その奥で、磨いたようにきれいな青銅が覗く。きっと、蝶の体に違いなかった。
「おそらく、次の日曜日には羽化するだろう。もっとも、不届き者が夜中に立ち寄らなければ、の話だが」誰かがそう言っていた。
その日曜日というのが、今日だった。
「うわあ、すごい並んでる。これって、あのサナギの前から続いてるのかな」中谷がうんざりしたような声で言う。
ここはまだ、「南10番 まり遊びをする少女」が建つ辺り。
「そうだよ、きっと。だって、この先100メートル位続いてるじゃん」
列は、ゆっくりと進んでいた。わたし達は辛抱強く、前の人に従う。
すでに見終えて引き返してくる者がこんなことを言っているのを聞いた。
「大きかったね。小さなサナギから、あんなに大きなアゲハチョウが出てくるなんて思ってもなかった」
「羽を広げて、今にも飛んで行ってしまいそうだったよね」
わたしは心配になる。
「ねえ、中谷。あのアゲハ、こうして待っている間にどこかへ飛んでったらどうしよう」
「大丈夫だって。それにほら、人が見ている間は動かないはずでしょ?」
いよいよ、わたし達の番が回ってきた。
「ああ――」隣で、中谷がため息をつく。ほかに言葉が浮かばないらしい。
それはわたしも同様だった。台座に残されたまま立つ、空っぽのサナギ。そのてっぺんから、空へ向かって羽ばたくアゲハチョウ。止まっているはずなのに、飛び立つその瞬間を何度も何度も眺めているようだった。
「本当に命が通っていて、息をしているみたい」中谷がようやく発する。
わたしも、心に生じた感動を言葉にしなくては、と懸命になったが、どんな表現もそらぞらしく思えてしまうのだった。
プレートに目を移すと、「南16番」のすぐあとに、「アゲハチョウのフラウ、羽を伸ばす」
そう、彫り込まれていた。