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都会に隠された温泉

 都心に建つ、ごくありふれたオフィス・ビル。その地下深くには、知る人ぞ知る、秘湯があった。

 インフォメーションに寄って、合い言葉をそっとささやく。

「オン・アビラウンケン……」

「ソワカ」若い受付嬢がにこやかに、そしてやはりそっと応える。「5番エレベーターで地下2階までお降り下さい。その先、突き当たりが『太古の湯』となってございます」

「ありがとうございます」わたしは礼を言ってエレベーターに向かった。


 1番から4番までのエレベーターの前では、ビシッとスーツを着こなしたビジネスマン達が並ぶ。和やかに商談をする者もいれば、やや緊張した面持ちの人もいる。どこかせわしない、という点においては共通していたけれど。

 5番エレベーターだけは、がらんとして誰もいなかった。そもそも、このエレベーターは地下専用である。押しボタンだって、下向きのものしかついていない。

 わたしは前に立ち、そのボタンを押した。ぽっとランプが点き、ものの数秒と経たないうちに扉が開く。

 中に入って、地下2階を押す。扉が閉まり、モーターの音と共にゆっくり降下していった。


 エレベーターが降りている間、わたしはインターネットで見た記事のことを思い出していた。「行楽地の温泉」で調べていたところ、偶然にここを見つけたのだ。

 〔都会にだって天然温泉はあるんだぜ!〕そんなタイトルのブログだった。

 日本は火山大国だから、たとえ大都市であろうと温泉が湧くに違いない。実際、掛け流しを謳い文句にした銭湯だってある。

 けれど、町中で温泉に浸かったって、雰囲気もへったくれもない。泉質だけではない、目で楽しんでこその温泉だ。

 たいして期待もせず、ブログを読み進める。そこは、有楽町駅から歩いて3分ばかりのところにあって、大昔から存在する地底湖だという。

 地中深くではマグマが煮えたぎり、湖を、さながら釜のように熱しているのだ。

 載せられている写真は、ぽっかりと空いた洞窟だった。球場がそっくり入ってしまいそうなほど広い。どうやら湯の中から照明を当てているらしく、全体がぼーっ輝いていた。

 人の手が加えられていないごつごつとした天井の岩は、幾重にも影を作り、まさに神秘的な風景。

 その写真をひと目見て、たちまち魅せられてしまったのだ。


 エレベーターはまだ下り続けている。今やっと、地下1階を通過したところだ。

 ほかのエレベーターと違い、階から階までの距離が恐ろしく離れているようだ。地上から数十メートル、もしかしたら数百メートルもの深さかもしれない。

 エレベーターの中がだんだんと蒸し暑くなってきた。地底温泉に近づいてきたのだろう。

 地下2階の表示が明るく点灯し、軽い振動を伴って停まった。

 扉が開くと、ムッとした空気が流れ込む。切れかかった蛍光灯の明かりを頼りに、手掘りの通路を進む。薄暗い先には、サッシが見える。そのガラス窓の向こうからぼーっと明かりが差し、湯気が立ち上っていた。


 サッシを開けると、ブログで見た通りの洞窟が広がっていた。目の当たりにしてみると、いかに壮大か思い知らされる。自分がちっぽけな羽虫にでもなったような気がした。

 更衣室も洗い場もない。くぐりを跨げば、いきなり浅い湯となっていた。その湯も、ただの湯などではない。自ら光を発し、金色に輝いているのだ。光は高い天井まで届いて、ゆらゆらと生き物のように揺れ動く。ここが現世とは、とても信じられない光景だった。

 着替えるところもなく、どうしようと戸惑っていると、奥の方から声がして洞窟中にこだまする。

「そのまま入ってらっしゃい」湯気に影が踊っていた。「大丈夫、ここの湯は濡れたりしないから」


 そんなことがあるものかと疑いつつ、そおっと爪先を漬けてみる。じわっと暖かさが伝わってきた。

「濡れたって、かまうもんか」思い切りよく、しぶきを立てながら入る。太股の辺りまで入ったというのに、濡れたという感じはしなかった。ぽかぽかと、ほどよい熱が上ってくるばかり。

「ね、平気でしょう?」さっきの人が言う。

「不思議な温泉ですね」わたしは、ジャブジャブと奥へ向かった。進むほど深くなっていく。

「これ以上先へ行くと、足が付かなくなりますよ」70は越していそうなおばあさんだった。笑っているのか、それともふだんからそういう表情なのか、おだやかで優しい顔をしている。

「都会にこんな場所があるなんて、びっくりです」わたしは言った。

「でしょう? 昔はみんな、ここへ湯治に来ていたものですけど、近頃じゃ知る者すらないんですよ」


「どうしてなんでしょうね。わざわざ遠くの温泉なんか行かなくたって、こんな近くにあるのに」

「さあねえ。きっと、大きな町というものは働くか住むかで、くつろぐところじゃない、なんて考えているのかもしれませんねえ」しみじみと言う。

「もしかしたら、合い言葉を知らないせいかもっ」わたしは思い出した。「ほら、例の『オン・アビラウンケン』ってやつ」

「ああ、そんなの必要ないんですよ、本当はね。誰か若い衆が、遊びで言い出したことなんでしょうよ」おばあさんは、ほほほっと屈託なく笑う。

「なあんだ、そうだったんだ」ブログのおしまいの方には、「この湯は無料ではあるけれど、合い言葉が必要」と書かれていたのだ。

 わたしがまんまと引っ掛かったのか、それともブログ主もそう信じていたのか。

 あのインフォメーションも、ノリノリだったなぁ。わたしが真顔で告げた時、ピクリとも反応しなかった。心の中では笑いをこらえていたに違いない。

 思い返して、つい吹き出してしまった。


「この洞窟はどこまで続いてるんでしょうね」わたしは聞いてみる。

「そうですねえ、話によれば河口湖と江ノ島が底のほうでつながっているって言いますよ」

「えーっ、ほんとですか?」驚いて聞き返してしまう。

「ほほ、ですから、噂ですよ、噂。誰も確かめた者もなし、実際はどうなっているやら」

 わたしは金色の湯をすくって、じっと眺めた。決して濡れない、輝く湯。これだけでも、十分すぎるくらい奇妙だ。ならば、もう1つくらい不思議が加わったところで大したこともない。

「きっと、その話は本当なんですよ。それどころか、よその国までも通じているかもしれません」

「よその国? これはまた、大層な話になってきましたよ。でも、そうですねえ。頭ごなしに否定はできませんね。今の今まで思いもしなかったことですが。ええ、きっとそうでしょうとも。世界中に通じているんですよ。なんだか、わたしもそんな気がしてきました」

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