超低空飛行
深夜の街をふらふらと歩くのは、なんて面白いんだろう! しんと静まりかえった通りには、人っ子1人見当たらない。いつもは騒々しい車道も、いまは風が吹き抜けるばかりだった。
「どこの家も明かりが消えてるなぁ。今頃はみんな、夢のなかなんだろうね」わたしは妙な優越感に浸りながら軒を歩く。
同時に、ちょっとだけ寂しい気持ちがした。この世界に存在するのは、自分だけのように思えるのだ。
ふと、背後に気配を感じた。
「変質者かもっ」ゾクッとして急ぎ足になる。振り返ると目が合いそうだったので、気取られないように角を曲がった。
100メートルほど先に公園の入り口が見える。抜けた先にはコンビニがあった。店のなかに逃げ込めば安全だ。
わたしはいっそう早歩きになり、入り口の鉄柵を飛び越えた。つま先がかすったが、転倒は免れる。
着地する瞬間、違和感を覚えた。
「あれ? こんなに遠くまで跳べたっけ」わずか10センチかそこらである。けれど、確かに飛距離が伸びている。
気配はますます強くなる。土を踏む音も、ハッキリと聞こえた。
間違いない。誰かが追ってきている。
早歩きから駆け足に切り替え、スズカケノキの立ち並ぶほうへと無我夢中で突っ走った。すると、何者かも足を速めてくる。
木の陰に身を隠しつつ、ジグザグに逃げた。以前、イノシシに追いかけられたらそうするすればいいと聞いたのだ。連中は一直線にしか走れないから、追いつかれる心配がないとのことだった。
果たして追跡者は、わたしが直角に曲がるたびにスキール音を立ててコースを修正している。思惑通りだった。
「ふーんだ、イノシシめっ」なんだか、愉快になってくる。まさか本物のイノシシということはないだろうが、人間だとすれば、相当な間抜けに違いなかった。
木立を抜けると、目の前に小川が現れる。ひと跨ぎで越えられる幅だが、用心のため、思いっきりジャンプした。
フワッという感覚。今度は錯覚ではなかった。
「まさかとは思うけど」空で足を漕いでみる。その分、滞空時間が延びた。
いままで生きてきて気がつかなかったが、そうか、空中であがけば地面に足が付く時間を延ばせるのか。
これは発見だった。コツをつかめば、もっと遠くまで跳べそう。いや、飛べるに違いなかった。
楽しくなって、走りながら何もない場所でジャンプを繰り返す。だんだんと感覚がつかめるようになり、飛距離も伸びていった。
いつの間にか、怪しい者に追いかけられていることを忘れている。
池にさしかかった。向こう岸まで5メートルはあるだろうか。少し前のわたしなら、当然、回り道をしていた。
だが、いまなら飛び越えられる自信がある。えいっ! と地面を蹴った。
必死になって足を漕ぐ。なかほどでかかとが水面に着きそうになるが、足を引っ込めてしのいだ。足をバタバタさせなくても、とにかく降りないように気をつければ、いくらでも浮いていられるらしい。
「できてみれば当たり前のことなんだよね。なんで、いままでやらなかったんでろう」つくづく不思議でならなかった。ひどく、損をした気分だ。
それからは、走るというよりも飛んでいる時間が多くなった。10メートルぐらい飛んで、どうしても維持できなくなると足を着く。
自転車の練習で、ふらふらと走っては片方の足で体勢を立て直す要領だった。
「だんだんと飛行できる時間も長くなってきたぞ。この調子なら、すぐに鳥みたいに大空を自由に飛べるかも」
けれど、課題もある。そもそも、高く飛ぶことができなかった。飛び上がっても、せいぜい50センチかそこら。だんだんと落ちてくるので、どうしても飛距離には限界があるのだ。
現状は、飛ぶというより跳ねているのだった。
「もっと高く飛べればなぁ……」ふわり、とん、ふわり、とんを続けながら考える。
遊具広場に来ていた。
ゾウの滑り台の階段を3段抜かしで駆け登り、てっぺんから一気に飛ぶ。いままでのなかで、1番高く宙を舞った。
「これだっ!」頭の上で、パッと電球がともる。うんと高いところから飛び降りればいいのだ。
ゆっくりと降りながら、どこか高い場所はないかと目を泳がせる。
あった、あった。時計台が! ざっと見て、20メートルはありそうだ。おあつらえ向きに、上までステップが付いている。あれを登っていけば……。
わたしは時計台の壁面を、登り始めた。
2メートルばかり来たところで、いきなり誰かに足を捕まれる。
「バカッ、何やってんだ!」
桑田孝夫だった。さっきからついてきていたのは、この男だったか。
「桑田こそ、こんな時間になんなのさ」びっくりした拍子にステップから手を離してしまう。危うく真っ逆さまだったが、尻餅をついた先に桑田がいて助かった。
「イテテ、さっさと降りろ、むぅにぃ」
「あ、ごめん、ごめん」
「で、なんだって時計台に登ろうなんて思いついたんだ」桑田に聞かれる。
「あのてっぺんからなら、もっと飛べるかと思ってさぁ」
「飛べるかっつの! あれだろ? 超低空飛行ってやつ。ジャンプくらいなら、そりゃあ、多少は浮かんでられるだろうよ。みんな、ガキのころにやったもんさ。だからって、高いとこから落ちたんじゃ、加速がついて、たちまち地面と激突だぞ。わかってんのか、おいっ」
えー、そうだったんだ。危ない、危ない。もう少しで、天国まで飛んでいってしまうところだった。