帰り道
パソコンをシャットダウンすると、うーんと伸びをして席を立つ。
「じゃ、お先に失礼しまーす」わたしはバッグを肩にかけ、残っている同僚に声をかけて会社を後にした。
入社して、そろそろひと月が経とうとしている。事務所は7階の一室にあるが、建物がとんでもなく大きかった。数えたことはないが、たぶん50階はあるだろう。
各フロアは縦横無尽に走る廊下でつながれていた。ときどき同じ階の別室に用事を頼まれるが、移動するだけで1時間、探し回るので、行って帰るだけで半日はかかってしまう。
15分かけてエレベーターまでたどり着いた。乗り込むと、地下1階のボタンを押す。総合商業施設となっていて、近辺すべてが地下街で接続されているのだ。
エレベーターの扉が開くと、たちまち喧噪に包まれる。24時間営業しているショッピング・モールが、ここよりはるか下層まで続いていた。
「やれやれ、やっと会社の外に出たって感じ。もう一息。がんばらなくちゃ」開放感はあるものの、ようやく旅の始まりといったところである。
エスカレーターでさらに下り、とにかくモールの反対側まで行かなくてはならなかった。
案内板を見ながらエスカレーターを探す。1ヶ月も通っているのに、まだ道順が頭に入りきっていなかった。方向音痴ということもあるが、なにより地下街は広すぎる。そして、あまりにも入り組んでいた。
退社時間が重なっているためか、慌ただしく行き来する人が多い。そんななかに、見覚えのある人を見つけた。どこの会社に勤めているかはわからないが、よくエスカレーターで一緒になる。
「よかった。あの人についていけばエスカレーターまで行ける」わたしはほっとして、後をついていった。
人とぶつからないよう気をつけながら、歩くこと10分。ようやく、乗るべきエスカレーターへと到着する。
「今日もこれに乗るのかぁ」乗り口でため息がもれた。エスカレーターは猛烈な速度で動いている。秒速10メートルほどだろうか。乗った瞬間、あっという間に体を持って行かれる。
うっかり降り損なったら、それこそ大惨事だ。まだ現場こそ目撃してはいないけれど、事故が多いことで知られていた。
前の人がエスカレーターをどう乗りこなすか、まずはじっくり見てから乗ることにしよう。
サラリーマンらしくスーツをビシッと着こなした彼は、襟を正すと身構えた。次の瞬間、さっとエスカレーターに飛び乗る。乗ったかと思うと素早く身を翻し、左脇に置かれた岩へ飛び移った。
なるほど、ところどころ両脇にある岩は、そのためにあったのか。
エスカレーターはその先、いくつかに分かれていた。鉄道路線のように、乗る線によってそれぞれ出口が異なるのだ。
サラリーマンはタンッと岩を蹴り、なかほどのエスカレーターに乗ると、視界から消えていった。
「わたしもっ」タイミングを見計らって、エスカレーターに乗る。着地して体が動き出すやいなや、岩をめがけてジャンプした。ぐらっとよろけたが、なんとか体勢を整える。次のエスカーターを確認し、心を落ち着かせて飛び乗った。そしてまた、岩へと跳躍……。
何度か繰り返し、ようやく目的の階へと降りることができた。
「ほんと、命がけだよ、まったく」手の甲で額の汗を拭う。
地下4階は飲食店街だ。立ち食いそば、立ち食いうどん、立ち食いラーメン、立ち食いバーガー、立ち食い寿司、立ち食い焼き肉、何でもそろっている。
ラーメンでも食べていきたいところだったが、エスカレーターのおかげで膝がガクガクだ。立ちっぱなしで丼なんか持ったら、床にぶちまけてしまいそう。
「やめとこう。コンビニのお弁当で我慢しようっと」豚骨醤油のおいしそうな匂いから顔をむりやり背け、店の前を通り過ぎた。
立ち食いピザ、立ち食いたこ焼き、立ち食いとんかつの店の誘惑に負けそうな心を鼓舞しながら、たっぷり30分歩く。
目の前がぱあっとひらけた。シニア・モーターカー乗り場のロータリーだ。
「もう、くったくた。誰も見ていないし、乗っていっちゃおう」60歳以上から乗車可能となっているのだが、罰則は特にない。
1番近くにあったシニア・モーターカーへと乗り込み、ハンドルを両手で握った。右ハンドルについているセル・スイッチを押したとたん、ブーンとモーター音が唸る。
右左、後方の安全確認をすませると、ゆっくりアクセルを踏んだ。
「らくちん、らくちん。まるで、走るソファーみたいっ」さらに踏み込む。メーターはあっという間に時速60キロに達し、専用道路を風のように進んでいった。
「そろそろジャンクションだね。見過ごしたら、とんでもなく大回りしちゃうから、気をつけなくちゃ」わたしは標識が近づくたび、目を皿のようにして注視する。
ほどなく「1キロ先 地下街 C3出口」と書かれた標識が現れた。左車線へと進路変更し、左折に備える。
「よし、ここだ」ハンドルを切って道をそれた。一般道へ降りるまでに何度も何度もループする。あんまりぐるぐる回るものだから、しまいには酔いそうになった。
最後のループが終わると、100メートルほどの直線へ出る。いたるところに「30キロ速度厳守!」と表示されていた。
ほどなく、路面標示や標識に「ここから徐行」と出てくる。
「そろそろか。今日も疲れたなぁ。仕事をしていたほうが、ずっと楽だよ。なんで、通勤なんてあるんだろう」などとぼやいているうちに、シニア・モーターカー置き場へと到着していた。
わたしはシニア・モーターカーを所定の位置に戻し、もよりの階段から外へ出る。すっかり暗くなっていた。星がとってもきれいだ。
家までは徒歩。バスも電車も通っていない。タクシーだって、めったに来やしなかった。
「さあてと、ここからが長いんだよなぁ。ノーソンでお弁当を買って、近くの公園で食べていこう。道に迷わなければ、3時間もあれば帰り着くはず。最悪の場合は、途中にある旅館に泊まっていこうっと」