霧の出た夜
5月もそろそろ終わるというある晩、わたしと中谷美枝子は神保町をさまよい歩いていた。
「この街を歩いてるとさ、上半身がギャルで下半身がヘビの悪魔とかがうろついてそうじゃない?」中谷が面白そうに言ってくる。
「なにそれー」思わず聞き返した。
「えー、知らない? 厨二病の女子大生とか、いつも腹ぺこの天使とかさあ」
「知らないなぁ。なんなのさ、いったい」
「そっか、知らないのか。ふーん、知らないんだ」
中谷のガッカリする様子を見て、わたしはなんだか申し訳ない気持ちになる。
なにげなくスマホで時間を確認すると、0時を少し回っていた。コンビニ以外はどの店も閉まっている。LEDの街灯だけが、妙に現実味を帯びて周辺を照らしていた。歩いている人もまばらで、しんと静まりかえっている。
「神保町って、こんな寂しいところだったっけ?」とわたしは中谷に話しかけた。
「うーん、どうだろう。お茶の水なら歩いたことあるけど、あそこだって深夜はこんなもんよ。それに、いまはCoD19とかいうウィルスが収まったばっかでしょ。出歩く人なんていないんじゃない?」
つい先週まで、CoD19ウィルスによる感染症が大流行していた。罹患すると引き篭もりになってしまう。外に出るのが億劫になってしまうのだ。これを「巣ごもり症候群」と呼ぶ。前兆症状として、食料品や生活用品の買いだめが起こる。クマやリスが越冬前に食べ物を蓄えるのと同じで、本能的にそうした行動が引き起こされるのらしい。
にわかに風の匂いが変わった。いままで見えていた遠くの風景が、まるで紅茶にミルクを注いだかのように淀む。
「霧が出てきたね」と中谷。
「幻想的だよね。こういうの、けっこう好きかも」
中谷はその場で立ち止まると、わたしの顔をじっと見つめた。
「ね、むぅにぃ。ボンディ湯に行かない?」
「あっ、わかる。うんうん、そんな気分だよねっ」
ボンディ湯は神保町にそびえる湯泉グランデビルの屋上にある、大露天風呂だ。24時間営業なので、いつ行っても入れる。
「よし、じゃあ行こう。あんたの好きな34度風呂もあるし、朝までのんびりしちゃおうか」
歩いてわずか7分。わたし達は湯泉グランデのエレベーターに乗り込む。
「地上18階はなかなかだよね。その屋上にお風呂があるんだから、もう爽快以外のなにものでもないよ」上昇負荷を全身に感じながら、わたしはワクワクとした気持ちでいっぱいだった。
「あたし、お風呂の中でビールを飲んじゃおうかな」中谷も口元を緩める。
「いいかも。おつまみは枝豆と、それから焼き鳥を何種類か頼もうよ」
屋上の受け付けで手ぬぐいとバスタオルを借り、入湯料を払う。しめて890円だった。
「あと、中ジョッキ2つと枝豆大皿、焼き鳥をおまかせで」中谷が受け付けのおばさんに頼む。
「はいよー。どこの湯船に運ぶかい?」
わたしと中谷は顔を合わせた。34度風呂では冷たすぎるし、中温風呂だと飲んでいるうちにのぼせてしまうかもしれない。話し合った結果、39度風呂がいいだろうということになった。
「じゃ、39度風呂に」
「はいよー。少ししたら持ってくからねー」
ロッカールームで服を脱ぎ、手ぬぐい1枚だけを持って屋外へと出る。冷気が全身を包み込んだ。とたんに、なんともいえない心細さに襲われる。
「さむっ。早くお風呂に入ろう」わたしは小走りに湯船を目指した。
「ちょっ、むぅにぃ。かけ湯、かけ湯っ」中谷が背後から慌てて声をかけてくる。
「あ……」わたしは入り口近くに設けられたかけ湯場に戻ると、しゃがんで手桶を手に取った。熱いお湯が肩から腿にかけじんわりと伝っていく。
「えーと、39度風呂は左から3番目よね」並んで歩き出すわたしと中谷。全部で10の湯船があり、それぞれ温度が異なる。それだけの湯船があるのだから、屋上全体も相当に広かった。奥のほうなど、湯気のせいで霞んで見えない。
「深夜だけあって、だーれもいないね」お湯から首だけ出し、中谷は辺りを見渡した。
「貸し切り状態ってやつだね。いい時間に来たじゃん、中谷」わたしはお湯の下で両手両足をうーんと伸ばす。泉質は弱アルカリ性で、体がヌルヌルとした。実はこのボンディ湯、地下800メートルから鉱泉を引いている。源泉は60度もあるが、ビルに張り巡らせた冷却パイプで温度を調整しているのだ。
空を見あげると、雲の間から上弦の月がのぞいていた。
「更待月ね。風流だわあ」中谷がうっとりと言う。
「霧も空まではおおっていないんだ」わたしも、ふうっと息をついた。
すーっとお盆が流れてくる。泡だったビールがなみなみと注がれたジョッキとおつまみが載っていた。
「あー、来た来たっ」中谷がうれしそうにジョッキを取る。
「ちょうど喉が渇いてきたところなんだよね」わたしもジョッキを持ちあげた。お互いのジョッキを軽く当て、ゴクッと流し込む。
「ハアッ、おいしい!」
「うん、最高!」
神保町の夜は更けていく。