ダムに沈んだ村
真夜中のダム湖を前に、わたしは1人佇ずむ。墨汁のような湖面には、月の影だけが揺れている。じっと眺めていると、吸い込まれそうだ。
堤防の傍らには、「これより入る者、備え付けのカッパを着るべし」と書かれている。
置いてある木箱を開けると、安物のレイン・コートと金魚鉢が入っていた。
わたしはレイン・コートを着込む。長靴と一体になった、ツナギだった。はて、金魚鉢はどう扱ったものかと悩んだが、レイン・コートの襟についたホックで、すぐに合点がいく。
「そうか、金魚鉢をかぶって、襟で留めればいいんだ」金魚鉢は、頭にぴったりと収まる。ホックで留めると、簡易潜水服の完成だった。
「じゃあ、行くかな」カンテラを手に提げ、石段を下りていく。その先は、満々と水をたたえたダム湖へと続いていた。
爪先から水の中へと浸かっていく。冷たい、と感じたが、耐えられないほどではない。真夏のプールだって、初めて入る瞬間は不安になるものだ。徐々に体を慣らしつつ、わたしは湖の底へと潜っていった。
ここは53年前、ダム建設に伴い沈んだ、水没村だ。暗い水の中、差し込む月の光が、建ち並ぶ廃屋の屋根を照らしている。
手許でギラギラと光るカンテラが、かつては杉林だった無数の朽ち木を浮かび上がらせた。透明度は高く、かざした明かりが遠くまで走っていく。ややもすれば、ここが水中だということを忘れてしまいそうだ。
聞こえるものといえば、金魚鉢の中で規則正しく繰り返される自分自身の呼吸の音と、歩くたびに発する、レイン・コートの衣擦ればかり。
文字通り、死んだ世界だった。
打ち捨てられた民家を、わたしは1軒ずつ見て回る。
たいていは、ドアや窓に板を打ちつけ、出入りができないようにしてあった。捨ててしまう家ではあったが、土足で踏み入られることをよしとしなかったのだろうか。それとも、中に思い出を閉じ込めておける、と信じてのことだろうか。
住んでいた人々が村を見れば、昔の光景がありありと蘇ったかもしれない。よそ者のわたしには、ただ、もの悲しく映るだけだった。
石垣も養鶏場も、長い年月を経てきたとは思えないほど、はっきりした姿で残っている。つい先週、湖底に没したのではないか、そんな錯覚さえしてしまう。
「ダムを開いて、すっかり水が引ければ、もう1度ここに住むこともできるかなぁ」そんなことを、ぼんやりと想像する。当時は、この谷も笑い声で包まれていはずだ。牛を引いたり、畑を耕したり、人々のそんなありふれた営みが目に浮かぶ。
初めて来た場所なのに、泣きたいほど懐かしくなってしまう。
何軒目かの農家を訪ねた時、母屋の窓から光が漏れているのに気付いた。
「おかしい。電気なんか、通ってるはずもないのに」納屋の影に隠れ、こっそりと様子をうかがう。
窓ガラスに人影が行き来する。
「ねえ、ママ。明日学校に着ていく服、こっちの赤いのでいい?」中から子供の声が聞こえた。
「あー、それ、ボタンが取れかけてるじゃない。ちょっと、貸しなさい。繕ってあげるから」
「そうだ、かあさん。ついでに、背広の袖も頼んでいいかい? 今日、会社の引き出しに引っ掛けちまってね。取れかけてるんだったよ」
「はいはい、コタツの脇にでも置いといて下さいな。ちゃっちゃと終わらせますから」
いったい、これは――。
この一家だけは立ち退かず、今も暮らしていると言うのか。
足音を忍ばせ、窓のすぐ横まで近寄ってみる。そっと覗くと、暖かそうなコタツを囲んで、家族がくつろいでいた。
たばこを吸いながら新聞を広げる父親、繕い物をする母親、テレビを観て、きゃっきゃっと笑う小学生くらいの女の子。
ただし、みんな影のように真っ黒だった。顔も着ているものも、何もかもすべて!
わたしはギョッとして、息を飲む。その気配に気付いたのか、新聞をテーブルの上に下ろす音がした。
「なあ、今、窓の外で何か聞こえなかったか?」
「さあ、わたしは別に……」
「あたし、見てみるっ」少女はそう言って立ち上がり、こちらへやって来た。
わたしは素早くその場を離れる。
十分、遠くまで来たところで、振り返ってみた。灯りなどどこにもなく、ほかの廃屋同様、しんと静まり返っている。
「夢でも見たかな。それとも、残された想いが見せた幻だったのかも」
確かめるだけの時間は残されていなかった。金魚鉢の中の空気が、もう少ないのだ。
元来た道を、心持ち早足で引き返す。