インド人の喫茶店
中谷美枝子と板橋のアーケードをぶらぶらしていた。
「雨降りって嫌ね」雫の滴るカサで地面をつつきながら、中谷はちょっぴり憂うつそうに言う。
「でも、アーケードは屋根があるから助かるよね」わたしはきれいな装飾でいっぱいの天井を仰いで答えた。
「うちの近所の商店街もアーケードにしないかなあ」
「そうなったら便利だよね。雨や日差しに気をつかわなくていいしさぁ」
秋も深くなってきて肌寒い日も多くなってきたこの頃。秋物のトップスを見に、しもむらへ来たのだった。中谷は薄いブラウンのカーディガンを、わたしは赤のパーカーをそれぞれ買い込んでいた。
せっかく来たのだからと、商店街を見て歩いていたのだ。
「むぅにぃ、ちょっとコーヒーでも飲んでいかない?」中谷が数メートル先の喫茶店を指差す。
「いいかも。レア・チーズケーキもあるといいんだけど」
いかにもアットホームな雰囲気の店構え。「タジマハル」と彫られたレリーフの看板が下がっていた。
「新しくできたのかしらね。前に来たときはなかったんだけど」
「田島春という人がやってるのかなぁ」
「うーん、そうかもね」
「入りやすそうな店だよね」とわたし。2人揃って店内に入る。
「イラッシャイマセ」カウンターの奥から彫りの深い顔立ちのマスターが落ち着いた口調で声をかけてきた。尋ねるまでもなく、一目でインド人だとわかる。
マスターに促されて、わたしと中谷は窓際の席へと着いた。
「田島春じゃなさそうね」くすっと中谷が笑う。
「うんうん。どこからどう見たってインド人だよね。そういえば、カレーの匂いが漂ってるよ。ちょっとお腹空いてきちゃった」
「もうお昼近いし、食べちゃおうか」
「そうだね」わたしはメニューを取って開く。「やっぱりカレーもあるよ、中谷。本格的なカレー、初めて食べるかも」
マスターが水を持ってやってきた。「オキマリニナッタラ、コエヲカケテクダサイ」
「じゃあ、わたしはナンとカレーのセット。それにブレンド・コーヒー」中谷がオーダーする。わたしもついでに頼んだ。
「ビーフ・カレー甘口をライスで。それとアイス・コーヒー。ミルクとシロップも」
マスターが軽く会釈して引き下がると中谷が言う。
「コーヒーはブラックで飲まなきゃ。あんたってほんと、子供口なんだから」
「ブラックって、なんだか胃がもたれるんだよね。それにただ苦いだけだし」
「まあ、いいけど。でもあんまり甘いものばかりだと太るよ」
「べつに。志茂田ともるからは、むぅにぃはもっと太ったほうがいいって言われたし」
中谷は冷やかすように眉を上げたが、肩をすくめただけで何も言わなかった。
マスターがトレーに載せたカレーとコーヒーを運んでくる。スパイスの香りがつんと鼻をくすぐった。
「焼きたてのナンだわ。すっごくおいしそうっ」中谷はナンをちぎってカレーに付ける。「うん、辛いけどおいしいわ!」
わたしもさっそく食べようとして、はたと困ってしまった。スプーンがないのだ。
「ねえ、中谷。スプーンがないんだけどどうしよう……」
「ああ、それね。きっと本格的なインド料理だから、手で食べるんじゃない?」
「手で?」わたしは驚いて聞き返した。
「そうよ。それも左手は不浄とされてるから、右手で食べるの」
しかたなく、わたしはおしぼりで手をよく拭き、右手でカレーライスをつかみ取る。熱かったがそこはがまん、がまん。
「あっ、おいしい。やっぱり本場のビーフ・カレーは違うねっ」
「本場のビーフ・カレー……ねえ」なぜか中谷が皮肉な笑みを浮かべる。
慌てたようにマスターが飛んできた。
「モウシワケアリマセン。スプーンヲオモチスルノヲワスレテイマシタ」わたしの傍らに銀色のスプーンを置く。
わたしと中谷は互いに顔を見合わせ、そのまま顔を真っ赤にさせた。
「あはは、ごめんごめん、むぅにぃ。だって勘違いするのも無理ないと思わない? インド人の経営する『本場のビーフカレー』なんだもん」大笑いする中谷。
「まあ、いいけどさぁ。ちょっとの間だけど、インド人の経験ができたし……」わたしは備え付けのティッシュで手を拭う。
食後のアイス・コーヒーもおいしかった。家ではインスタント・コーヒーばかりなのでなおさらだ。
中谷のコーヒー・カップからはいい香りが漂ってくる。それをおいしそうにすする中谷を見ていると、ブラックもいいかもしれないという気がしてきた。
わたし達がコーヒーをすっかり飲み干し雑談をしていると、マスターがつかつかとやって来る。
「ショクゴノスモーナド、イカガデスカ?」
「はい?」きょとんとした顔で中谷が見返した。
「ジャパニーズ・コクギ、スモーデスヨ」マスターが繰り返す。
「あ、いいです、いいです」わたしは両手を振って断るが、「いいです」が「はい、いいです」という意味で伝わったらしい。うれしそうな顔でエプロンを翻す。なんと、ふんどしを履いていた。
「ええーっ?!」中谷がびっくりして裏返った声を出す。
「デハ、マズ、アナタカラ」マスターはわたしを指差した。なんだか断れない雰囲気になり、溜め息をつきながら席を立つ。
「デハ、イキマスヨー。ハッケヨーイ、ノコッタ!」マスターはわたしにつかみかかってきた。
なんだか負けられないような気がして、わたしも力を振り絞る。