量子脳理論にはまる
中谷美枝子から電話が来た。半ばパニック状態である。
「むぅにぃ、大変よ! 桑田が遺体で発見されたんだって」
「ええっ?!」わたしは素っ頓狂な声を出した。あの桑田孝夫が死んだって?「どうして、そんなことにっ?」
「今朝、4丁目の隅田川に浮かんでいるところを発見されたんだって。酔って橋から落ちたんじゃないかって」
「そんな――」
「病院に安置されているっていうから、今からみんなで行こう」
「う、うん……」
電話を切ったあとも、わたしはまだ信じられなかった。桑田が死ぬなんて、とても現実とは思えない。
わたしは急いで着替えを済ませると、持つものも取りあえず家を飛び出した。中谷によれば、神谷病院へ搬送されたとのことだ。ここから走っても10分ほどの距離である。
病院に着くと、志茂田ともる、木田仁、それに中谷が入り口で立っていた。
「ああ、むぅにぃ君。こんなことになって残念です」志茂田がしおれた表情で声をかけてくる。
「桑田が死ぬなんて、とても考えられないわ」中谷はハンカチで目を覆いながら言った。
わたしも流れ出る涙をどうしようもない状態だ。拭っても拭っても、止めどもなくこぼれてくる。
それに引き替え、木田は意外なほどケロッとしていた。
「まあまあ、みんな。まずは遺体を見てみようよ」
こんなときに何を言っているんだろうと、わたしは内心腹立たしく思う。
全員が揃ったところで、病院へと入る。受け付けで桑田の友人であることを告げると、看護婦は悲しそうな顔をしながら遺体安置室を案内してくれた。
地下を降りて部屋に着くと、中からさめざめと泣く声が洩れてくる。中に入ると、桑田の両親や親族らしい数人が白く無機質なベッドを取り巻いて泣いていた。
わたしはお辞儀をして、そっとベッドに近づく。そこには妙に生白い顔をした桑田が横たわっていた。
「桑田ぁっ」思わず手を握ってしまう。まるで氷のように冷たかった。
ほかの3人もお悔やみの言葉を投げかけながら、わたしの元へとやって来る。
「あなたはわたし達の誰よりも長生きすると思っていたのですが……」志茂田は無念そうにそう語りかけた。
「あんたが死んじゃうなんて、そんなのウソよっ」中谷ははばかりなく泣きじゃくる。
木田は桑田のそばに来ると、その額に手を当てた。カゼをひいて寝ている桑田の熱でも測るかのように。
「おいら、まだあきらめてないんだ」ぼそっと木田がつぶやいた。わたし達は一斉に彼を見る。
「どういうことでしょうか、木田君」志茂田がやや避難めいた口調で尋ねた。
「おいらさあ、今、量子論に凝っててね。色々と調べてるんだ。知れば知るほど興味深いんだぜ、これが」
「量子がどうのって、それとどう関係あんの?」中谷がキッと睨み付ける。
「まあ、聞いてって。ロジャー・ペンローズっていう量子理論学者がいるんだけどさ、彼が言うのには脳には微細管というすっごく小さな組織があってね、その中には量子が詰め込まれているんだって。それが人間の意識というか魂だって言うんだよ。死ぬと、その量子が脳から放出されて宇宙に拡散されるんだ。運良く蘇生すると、散らばった量子が引き戻されて脳に戻るんだって。これは麻酔科医のスチュワート・ハメロフも賛同してることなんだ」
「するとあなたは、霊魂の存在を信じるというわけですね?」志茂田が畳み込むように聞く。
「うん、信じるよ。量子理論を知れば、それも当然に思えるからね。実際、臨死体験した人っているよね。その人達の話じゃ、死ぬときにトンネルのようなものを抜けて光の世界へ行くって、口を揃えて答えるじゃないか。そのトンネルこそ微細管――マイクロ・チューブルともいうけどね――なんだと思う」
「なるほど、確かに量子が奇妙な振る舞いをすることはわたしも知っています。量子もつれや量子の重なり合いなど、一般物理学では説明のつかないことばかりです。あのアインシュタインですら、最後まで納得しなかった理論ですからね」志茂田は顎をさすりながら言う。「それで、あなたは何を考えているのですか?」
決まっているじゃないかといわんばかりの顔で、木田は答えた。
「いいかい? この世のすべては量子でできてるんだぜ。量子っていうのはエネルギーそのものなんだ。今こうして話している声だって、量子なんだ。だから、ここにいるみんなで桑田の量子を引き戻せるんじゃないかと思うんだ」
「引き戻すって、どうやって?」涙を拭きながら中谷が聞く。
「『桑田ーっ、こっちへ戻ってこい! 光の方へは行くなーっ』って叫ぶんだ」
ふだんのわたしならばかばかしいと意に介さなかったに違いない。けれど、今はそうではなかった。かすかでも可能性があるのなら、やってみるべきだと思った。
「ねえねえ、やってみようよ」とわたし。「木田の考えが正しければ、桑田の量子はまだ拡散してそう遠くへは行ってないと思う。もしかしたら、こっちへ戻ってくるかも」
おそらく、その場にいた全員は半信半疑だっただろう。それでも、わたしの熱意に打たれたようで、試してみることになった。
全員で「桑田ーっ(両親とその親族は孝夫ーっ)と叫び声を繰り返す。
15分も声を張り上げていただろうか。喉がガラガラになってくる。
そのとき、親族の1人があっと声を上げた。見ると、桑田の顔にぽっと赤みが差してきたのだった。
「やったぞ、おいらの思った通りだ!」木田が万歳をしながら桑田の体を揺さぶる。
「う……う~ん――」桑田が億劫そうに目を開けた。
開口一番にいった言葉はこうである。
「誰だよ、おれを呼びやがった奴は。せっかく、きれいな花畑で楽しい思いをしてたのによ」