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逃げたキズ口

 中谷美枝子とウィンドウショッピングを楽しんでいたら、後ろから、リンリンッ、とせき立てるようなベルの音が鳴り響き、すごいスピードで自転車が走ってきた。

「危ないっ!」中谷が叫ぶのと、わたしがはね飛ばされるのと、ほとんど同時だった。

 自転車は、よろけたものの、なんとか転ばずに済み、耳の奥まで痛くなるブレーキの音を立てて止まる。

 乗っていた角刈りのおじさんが振り返り、

「ばっきゃろーっ、どこ見て歩いてやがる!」と怒鳴った。すっきりしたのか、向き直ってペダルを漕いで去って行く。

「大丈夫? むぅにぃ」中谷が手を貸して、わたしを起こしてくれた。

「あいたたぁ……」右足をぶつけられた上、尻餅までついてしまった。

「あっ、むぅにぃ、あんた、足に血が滲んでるよ。ちょっと、まくってごらん」


 言われて、右足を見ると、デニムが赤く染みになっていた。そっとたくし上げると、ふくらはぎがパックリと裂けている。

「うわぁ」血を見るのはなんでもないけれど、キズ口を目の当たりにして、ゾッとした。

「ハンカチはある? とにかく、止血しなきゃ。それから病院に行こ、近くのさ」中谷がティッシュでキズの周りを拭いてくれる。わたしは、ハンカチを出して三角に折ると、少しきつめに縛った。

 病院へ行く道すがら、中谷が言う。

「警察に話した方がいいんじゃない? さっきの人を捕まえて、治療費とかもらえばいいよ」

「うーん、だけど、こっちもぼーっとしてたからなぁ」右足をかばうようにして歩くので、左足がつりそうだ。

「あんたって、ほんと、お人好しなんだから」中谷はあきれた顔をする。

「事情聴取とか面倒臭いし、それに、逆恨みされて、あとで付け狙われたら怖いじゃん」

「そっかなあ、そういうこともあるのかなあ」


 診療所は空いていて、ほとんど待つ間もなく、診療室へ通された。

「えっと、むぅにぃさんね……」まだ若い先生だった。「自転車にぶつけられたんだって? そりゃ、災難だったね。警察へは行った?」

「いえ、こちらも不注意だったので、特には」とわたし。

「そう。じゃ、そこの台に横になって、裾をまくってくれるかな」

 わたしは診療台で仰向けになり、右足を膝小僧まで上げる。巻いてあったハンカチをほどく時、乾いた血に貼り付いていて、ピリッと痛みが走った。思わず、顔をしかめてしまう。

「あー、こりゃあきれいに開いちゃってるね。5針は縫わなきゃならないなあ」

 嫌だなぁ、きっと痛いに決まってる。

 その時、ふくらはぎに虫が這ったような感触を覚えた。わたしがムズッと体を震わせるより一瞬早く、先生が「あっ!」と大声を出す。

 

 起き上がって自分の足を見ると、今の今までそこにあったキズ口がなくなっていた。

「君っ、キズ口が逃げてしまったよ。よほど、縫われるのが怖ろしかったと見えるね」

 体の一部だけあって、思いは同じようだ。5針も縫うと言われ、じっとしてはいられなかったのだろう。

「すぐに追いかけます。少し、待っていてもらっていいですか?」わたしは診療台から飛び下りる。

「うん、頼むよ。キズ口がなけりゃあ、治療もへったくれもないからね」困ったように頭をかく。

 待合室で座る中谷に、

「大変、キズ口が逃げちゃってさぁ」と声をかけた。

「えーっ、それって、たった今跳ねていったやつに違いないよっ」中谷は、長イスからパッと立ち上がる。

「どっちへ逃げた?」

「正面出口。急ごうっ。まだ、追いつくと思う」

 わたし達は診療所を飛び出していった。


 通りの向こうを、わたしのキズ口がピョンピョンと弾んでいく。

「あ、いた。こらっ、待てーっ!」

「あんた、足は痛くないの?」走りながら、中谷が心配する。

「うん。だって、キズ口は逃走中なんだもん」

 そのキズ口は、勝手知ったように脇道ばかりを選び、わざわざ人の多い商店街へと抜ける。

「この商店街って、あんたがいつも買い物をするコースじゃないの」

「じゃ、行く先はいつものスーパーかっ」

「あたし、そこへの近道知ってる。しかも、あんたが知らない裏道。あんたが知らないんだから、あいつだって知るわけない。先回りして捕まえよう」

 中谷が先頭を走り、わたしが後をついて行く。いったん、商店街から外れ、狭い路地を通ってから、再び入り直す。すると、目の前はもう、スーパーだった。


「あ、ほら、あっちからやって来る。今だ、捕まえようっ」わたしが飛び出すと、ちょうどそこへ自転車が走ってきた。

「むぅにぃっ!」中谷が声を上げる。今日は、これで2回目かぁ。わたしは迫り来る自転車を前に、そう覚悟した。

 ところが、今回は衝突を免れる。すんでのところで、中谷が腕を引っ張ってくれたからだ。

「ありがとう」ほっと胸をなで下ろす。その直後、自転車は電柱にぶつかって転倒した。

「ば、ばっきゃろ……。どこ見て歩いてやがる――」半分目を回しながら電柱に抱きつくのは、さっきのおじさんだった。

「ばかはおまえさんだ。この商店街は自転車禁止だろがっ」そばの豆腐屋が腰に手を当てて見くだしていた。


「あ、キズ口はどこ行ったんだろう」わたしは辺りを見回す。

「あったわ」中谷がおじさんを指差した。

 ズボンは裾から腿へとかぎ裂きで、素足がはだけている。その脛には、あのキズ口がペッタリと貼り付いていた。

「どうしよう……」わたしは途方に暮れてしまう。

「ちょうどいいじゃない」中谷は、万事解決、といった顔で言った。「さっきの病院を教えてあげればいいのよ。キズ口が誰のものになろうと、お医者さんにとっちゃ、そんなの関係ないもの」 

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