都電の運転をする
桑田孝夫と東京で唯一走る都電、荒川線に乗りに行くことになった。といってもただ乗るのではない。わたし達が運転をするのだ。
期間限定で、夜間のみ一般人の運転を体験できる。滅多にない機会だけに、桑田もわたしも興奮気味だった。
「ねえ、桑田。電車とか運転したことある?」わたしは聞いてみる。
「いや、さすがにねえな。ゲームでならあるけどよ」
それもそうだ。運転士になるには厳しい研修や知識が必要である。それに都電は一般道を走るわけだから、ほかの交通にも気をつかわなければならない。
「それにしても、経験のない人に運転させるなんてすごい試みだよね」
「まったくなあ。まあ、深夜でクルマも少ないし、レールの上を走るだけだからアイドリングもいらねえってことで、運営側もさほど心配してねえんだろうな」
「電車の運転手簡単なのかなぁ」
「うーん、決まった場所に停止したり、時間通りに運行しなくちゃならねえからな。やっぱ、難しいんじゃねえの?」と桑田。
試乗会は真夜中の0時から。もちろん、営業運転はとっくに終わっている。
わたし達はタクシーで帰宅の外れにある、荒川車庫前電停まで行った。ここは名前の通り都電の車庫で、メンテナンスなどを行っている。
さぞかし混んでいるだろうと思っていたが、桑田とわたしを入れて全部で5人ほどだった。1人は大学生くらいの青年で、銀縁めがねをかけたいかにも生真面目そう。もう1人は50過ぎくらいのおばさん。人のよさそうなふっくらとした人だ。最後の人はモヒカン刈りに革のジャケットにボロボロのダメージデニム、髑髏のイヤリングにトゲトゲのブレスレット。いかにもパンクといった風情だ。
おばさんはそんなパンク青年を哀れみの目でじっと見つめている。穴だらけのジーンズが、まるでお金が無くてズボンも買えないのだろう、そう思っているのに違いない。おばさん、あれはそういうファッションなんだってば、とわたしは声をかけたくなった。
電停で待っていると、緑色の都電が煌々とライトを照らしながら入ってくる。
「なんだか緊張してきちゃった」わたしが言うと、
「心配ないって。運転士も同乗しているんだからよ」桑田が笑う。
都電の前扉が開くと、中から運転士が降りてきた。
「このたびは深夜試乗会にようこそいらっしゃいました。この企画は、地域の皆様と都電にもっと親しみを感じていただくために催すものです。実際にご自身で運転をして、よりいっそう都電を身近に感じていただければ幸いです」
いったん全員が都電に乗り込み、運転席を見せながら一通りの説明をする。
「このレバーで発進、こちらのレバーがブレーキになります。運行ルートはここ荒川車庫から大塚駅まで。そこから引き返して再びここに戻ります。ただし、本日はいつもと違う秘密の路線を利用します。いくぶん遠回りにはなりますが、ふだんは使うことのないレールなので十分にお楽しみいただけると存じます」
「秘密のルートだって」桑田にそっとささやいた。
「わくわくするな。昼間は絶対に乗れないんだぜ。来てよかったな」
「それでは、一人目の方、運転席にどうぞ」運転士が言った。大学生がはい、と返事をして席に着く。体操落ち着いていた。まるで、前にも電車を運転したことがあるかのようである。
「それでは発進してください」と運転士。
大学生はうなずくと、レバーをグイッと左に回す。都電がガタンと揺れ、動き出した。慎重にレバーを回していくと速度が増していく。
梶原電停の10メートルほど前でレバーを戻しはじめ、無事にちょうどいい位置で停止した。次の栄町もさらに次の王子駅前も難なくこなす。
「さあ、ここから別ルートへと行きます」と運転士が言った。「本来ならこのまま明治通りを進み、池袋方面へと向かいますが、本郷通りへと入ります」
はて、本郷通りにレールなどあっただろうか、とわたしは首を傾げる。けれど、運転席の窓から前を見ると、街灯に照らされて銀色の線路があった。
日中はクルマ通りの激しい道路だが、この時間帯はほとんど見当たらない。
「西ヶ原一里塚を過ぎたら、速度を一気に上げてください」運転士が促した。2、3分もすると左手に一里塚と書かれた標識が見えた。大学生はレバーをめいっぱい回す。都電はドンドン加速していき、速度計の針が振り切った。
レールが路面から浮き上がりループになっているのが見える。まるでジェット・コースターのようだ。
都電は猛スピードでループに入り、一回転して元の路面へと着地する。
「はい、速度を落としてください」運転士が淡々と指示をした。
「今のちょっと怖かったね」とわたし。
「そうか? おれは面白かったぜ」桑田は平然と言ってのける。
「あれ、スピードがちゃんと出てなかったら絶対脱線してるよね」
「そうだな。むぅにぃ、おまえ気をつけろよ。緊張してヘマすんなよな」
「うん……」正直、わたしには自信がなかった。わたしはうっかり者だし、桑田の言う通り、緊張していると人の話など耳に入らないのだ。
なんだか無性に怖くなってくる。
大学生はお手本のようにすべてを見事にクリアし、スタート地点へと戻った。
次はおばさんだった。とても穏やかな運転で、これもまた満点と言えるほど。パンク青年はやや荒っぽい運転だったが、見た目ほど飛んではいなかった。
「桑田の番だね」わたしは緊張のクライマックスに達している。
「おう、おれの腕を見てろよ」普段からクルマやバイクに慣れているせいか、口笛さえ出てくるほど余裕だった。
いよいよわたしだ。手が震えて仕方がない。
「じゃあ、少しずつ速度を上げていきましょう」運転士がそう言ったにもかかわらず、わたしはレバーを思いっきり動かしてしまった。
都電はドンッと加速し、慌てたわたしはレバーを一番右まで回してしまったものだから急ブレーキがかかってしまい、見事に脱線させてしまった。
「あー、やっちゃった――」わたしは思わず言葉にする。
「えーと、まあ……。そういうこともありますよ。気にしないことです」と運転士が慰めてくれる。「さあ、皆さん。外に出て車両をレールに戻すのを手伝ってください。重いですから、十分にお気をつけください」