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月が落ちてくる

「この頃、月が大きく見えるね」と会社の同僚が言う。

「寒くなって、空気が澄んできたからじゃない?」わたしは答えた。

「今日は残業確定だから、月を見ながらの仕事になるねえ」同僚は溜め息をつく。「いっそ、地上にでも落ちてくれたらいい。そうすれば、当分は会社が休みだろう? おれ、有給にしてもらうんだ」

「そんなことにでもなったら、当分どころか、退職扱いじゃない?」わたしはあきれた。

「それは困るな。去年買ったばかりのプリウスだって、まだローンが残ってるんだ。そうかあ、月が落ちて来ちゃまずいよな」


 退社時間になり、残業のない社員がガタゴトとイスから立ち上がる。窓の外はすっかり、暗くなっていた。ぽっかりと浮かぶ月は一段と明るく、ずっとずっと大きい。

 窓際に立ってそれを眺めていた課長が、顎に手をやり、何やら神妙な表情をする。

「まずいな、これは」そうつぶやくのを、わたしは聞いた。それから、帰りかける社員に向かって声をかける。「ちょっとみんな、帰るのは待ってくれないか。どうも、大変なことになった」

 わたし達は一斉に課長を振り返る。

「どうかしましたか、課長」同僚が尋ねた。

「あの月を見て欲しい。大きすぎやしないかね?」

「あれは、空気が澄んで、それで大きく見えるんじゃないでしょうか?」さっきわたしが言った言葉を、そっくり繰り返して課長に聞かせる。


「いや、そうじゃない。月が地球の引力に負けて、落下しているんだ。こうしちゃおれん。ささ、みんな。うちわを持って、屋上に来てくれ」

 全員が、夏に取引業者からもらった、広告入りのうちわを机の引き出しから探して引っぱり出す。

「それから、ほかの課にも連絡して、応援を頼んでくれないか。人手は多いほどいい」

 わたしは、思いつく限りの内線に電話をかけまくり、「うちわを持って、大至急、屋上へ集まって下さい」と伝えた。


 避難訓練の時のように、急ぎ足で階段を駆け上る。狭い屋上は全社員が押しかけ、ぎゅうぎゅうだった。

 誰も彼もが、手にうちわを握っている。

「これから何が始まるんだ?」

「さあ、あたしは呼ばれてきただけで……」

 ざわざわと私語が広がる。

 わたし達の課長が屋上の柵に足を掛けて登った。

「みなさん、お集まりいただき、まことに恐縮です。簡単に説明させていただきます」両手でメガホンを作り、そう叫ぶ。「実は今、月が地球めがけて落ちている最中でして。どうやら、われわれの会社がその中心地のようなのです。幸い、落下速度はゆっくりとしたものなので、みんなしてうちわであおげば、ひょっとして食い止められるのでは、と」


 あちこちから様々な声が上がった。

「大変だ、さっそくあおがなくちゃなあっ!」

「この人数だけじゃどうにもならん。さっさと、逃げ出した方がいいっ」

「逃げるって、どこへだい。月の直径は3,474キロもあるんだ。今からじゃ遅すぎらい!」

「わたし、この界隈の会社にも協力を求めてみるっ」

「そうね、それがいい」

 至るところで携帯を操作する電子音が響く。ほどなく、周辺のビルでも、屋上に人が集まり始めた。

「まさか、本当に月が落ちてくるとは思わなかったね」同僚がわたしに向かってうなずく。

「うんうん、なんとか押し返せるといいんだけど」わたしは、さっそくうちわを空に向けた。

「とにかく、できるだけのことをしなくちゃなっ」同僚も月をあおぎだす。

  

 これだけの人がうちわをあおぐので、辺りはものすごい風が舞う。ここばかりではなく、今や町全体が空に向けてパタパタとあおいでいた。うちわが手許になければコートを脱いで振り回したり、中には口でフーフーと息を吹きかける者までいる。

 月はだんだんと近づき、いつしか視界いっぱいに広がっていた。

「このままじゃ、地面にぶつかるぞ! もっと、あおげっ。力いっぱい、手を動かせっ!」そう、誰かが怒鳴る。

 離れたところで、ゴツンッ、という音がした。振り返ると、ここいらで1番のノッポビルの先端に、月が当たっている。

「あ、やっちまった。修繕費、保険が下りるといいな」

 ビルに引っ掛かったことで、月の落下はいっそう緩くなった。不幸中の幸い、というやつだ。


「いつまであおいでればいいんだろう」わたしは言った。そろそろ、腕がくたびれてきた。

「今、スマホのワンセグで観てるんだけど、自衛隊が月の裏側までヘリで飛んでって、風船をいっぱい、くくりつけてるんだそうだ」

「相当、結ばないとダメだよね、それって」

「デパートにもお願いして、アドバルーンも借りるらしい。何だかんだで、あと1時間頑張れば、元いた軌道まで上がっていくんだってさ」

「1時間かぁ。とにかく、早いとこ済ませてもらいたいよね。ところで、これって残業に含まれると思う? 手当はちゃんとつくのかなぁ」

「あ、それなら大丈夫。屋上へ上る前、ちゃんと課長に確認を取ったから」同僚は請け負った。

 わたしはホッとし、やる気を出してうちわをバタバタとあおいだ。

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