難しい話で頭が混乱する
中央公園の噴水広場前で、わたしと志茂田ともるはのんびりとひなたぼっこをしていた。
「もう11月も終わるというのに、今日はぽかぽかといい陽気ですねえ」志茂田が心地よさそうに言う。
「ずっとこんなだったらいいのに。寒いのは苦手。来月になれば、あっと言う間に冷えるんだろうね」わたしは答えた。
先月までは出ていた噴水も、今はもう止まっている。なんだか、枯れた池のようで心許ない。
「そうですね。12月に入れば、すぐに年末ですね。1年など、本当に早いものです」
「今は噴水が出ていないけど、もし水が噴き出しているのを見たら寒く感じちゃうかも」
「そうですねえ。けれど不思議なものです。夏でも冬でも、『水』という言葉を聞くと冷たいというイメージがありますね」志茂田は額に手を当てながら言った。
「そりゃあ、水は冷たいからでしょ?」とわたし。「お湯は熱いもの、水は詰めたいもの、そんなの当たり前じゃん」
「果たしてそうでしょうか、むぅにぃ君。決して単純な事柄ではないと思うのですよ」
「というと?」
「ソシュールという言語学者は、シニフィエとシニフィアンという言葉を用いて、ものの名前を考察しました」ゆっくりと噛み砕くように志茂田は言う。
「なに、そのシニフィエとかって?」わたしは聞いた。
「例えば、『ゴキブリ』と聞いて、何を思い浮かべますか?」
「そりゃあ、黒光りしてて気持ちの悪い虫に決まってるよ」
「もし仮に、そのゴキブリが『タマムシ』という名前だったとします。それでも、むぅにぃ君。あなたはタマムシという言葉を好きになれるでしょうか」
わたしは考え込んだ。「ゴキブリ」という名前は否が応でもあの虫を連想する。でも、「タマムシ」という名前だったとしたら……。
「やっぱり、気持ち悪い虫だって思うかも」
「そうなりますよね。この場合、『タマムシ』という名前そのものをシニフィアンと言います。そして名前の対象となった存在をシニフィエと呼ぶのです」
「名前そのものと名付けられたものかぁ……」わたしはほほに手をやり、とっくりと考えてみた。今まで、そんなことなど思いもつかなかった。
「『赤毛のアン』のなかでも、アン・シャーリーは言っているではありませんか。『もしバラがバラという名前でなかったなら、あたしは今ほどバラを好きになれないと思うの』と。しかしながら、それはどうかとわたしは思うわけです。バラが『アザミ』という名であったとしても、アンはバラを愛したことでしょう」
「つまり、名前なんて人間が勝手に付けたものだから、どうでもいいってこと?」
「大筋ではそうですね」
そのもの言いにどこか不自然さを感じたわたしは、
「志茂田は、名前というものは名付けられたものと元々関連があるって言うの?」
一息ついてから、志茂田は口を開いた。
「確かに、ソシュールの言うことは一理あると思います。ですが、ある対象に対してある発音が関係していることもまた、事実なのではないでしょうか」
いよいよわたしの頭は混乱してきた。名前を付けることは、たんなる思いつきなどではなく、意味があることなのだろうか。
だとしたら、暴力団の親分の名前は鬼五郎とかであってもいいようなものだけれど、正美かもしれないし、優一かもしれない。
少なくとも、外観からはまったくわからないのだ。
「簡単なテストをしてみましょう、むぅにぃ君」志茂田が言う。「ここに丸っこい図形とギザギザした図形があるとします。それぞれに名前を付けたいのですが、候補を2つだけあげることにしましょう。1つは『ブーバ』、もう1つは『キキ』。さて、むぅにぃ君。あなたは、どちらにどの名前を付けますか?」
わたしはほとんど考えもせず、
「丸っこい方がブーバ、ギザギザのほうがキキ」と答えた。
「大半の人が、むぅにぃ君と同じ回答をするのですよ」と志茂田がうなずく。「まるっこい図形は『ブーバ』、ギザギザの方は『キキ』と。不思議ですよね。わたし達人類は物の形や色などに対して、普遍的な発音イメージを持っていると言えるようです。ですから、先ほどの『ゴキブリ』もまた、そうしたイメージから名付けられたと考えていいのではないでしょうか」
「でも、共通の感覚ってどうしてあるのかなぁ……」
「1つは、人類が同じ祖先を持つという考えかたがありますね。遺伝子的に共通しているということです」
「あ、最初の人間ってアフリカで生まれたって聞いたことがあるっ」わたしは手をポンッと打った。
「もう1つは、ユングが主張するところの『集合的無意識』の結果かもしれません」
「ユングって、なんだかわからないんだよねー。試しに1冊だけ読んでみたけど、ちんぷんかんぷんだったなあ」わたしは溜め息をついた。フロイトも読んだことがあったが、理路整然としていて読みやすかった。もっとも、その内容に賛同するものではなかったけれど。
「人間には表層意識――これは、ふだんわたし達が感じている意識ですね――と個人的無意識があります。無意識というくらいですから、認識することはできません。さらに深く探ると、集合的無意識が広がっているとユングは言うのですよ。それはすべての人類の心が1つになった世界で、インターネットで言うところのサーバーのようなものです。わたし達は1台のパソコンにすぎないのです」
もう、わたしは志茂田の話についていけなくなってきた。個人が個人ではないとか、対象に付けられた名前が発音に関与しているとか、とても現実離れしている。
まだ、「むぅにぃ君、実は幽霊は存在するのですよ」と言ってもらった方が、ずっと理解できる気がした。