象牙山のハイキング
桑田孝夫の誘いで、祖父の所有するという「象牙山」へハイキングに出かけた。
登る前に、桑田の祖父の元へと寄る。
「おお、よう来たな孝夫。そちらはお友達かい?」70をとうに過ぎているそうだが、背もピンと伸び、かくしゃくとしていた。
「うん、じいちゃん。こいつ、このところ運動不足だって言うもんだからさ、山登りでもさせてやろうと思って」
「そりゃあいい。あの山は、ああ見えて、けっこう急だからなあ。体を作るにはよかろうよ」
「初めまして、むぅにぃと言います。桑田――いえ、孝夫君にはいつもお世話になりっぱなしで」わたしはおじいさんに挨拶をする。
「こんな悪ガキだが、どうか、末永く付き合ってやってくだされ」笑うと、桑田にそっくりだ。間違いなく血が繋がっているんだなぁと、つまらないところで感心してしまう。
「じゃあ、行くか」桑田がリュックを背負い直す。
「日が暮れる前には帰ってくるんだぞ。万が一遅くなったときは、無理をして降りようなどとは思わず、頂にある小屋で朝を待つんだ。一晩泊まるくらいなら、なんでもないよう、日頃から用意してあるでな」
「大丈夫だって、心配しないでよ、じいちゃん」桑田は軽く聞き流す。
どこでもそうだが、孫はかわいくて仕方がないらしい。つい、気を揉んでしまうのだろう。
「行ってきます、おじいさん」すでに歩き出した桑田を追って、わたしも急いで追う。
象牙山は、踏みならしたような平原の真ん中にぽん、と置かれた山だった。ヒョウタンを横に寝かせたような形をしていて、紅葉のなごりが黄色や茶色の模様を作っている。
「なんで象牙山って言うの?」登山口に入った辺りで、わたしは聞いてみた。
「象牙に似た石が採れるからだ。来る途中、てっぺんの方に灰色っぽいのが見えたろ? あそこが石切場だったんだってよ」
「今でもあるのかな、その石」
「あるよ。石が尽きたわけじゃなく、単に掘り手がなくなったんだ、ってじいちゃんが言ってた」
「ね、ハイキング・コースがその近くまで通る、なんてことない?」
「あ、お前。象牙石が欲しいんだな? ああ、すぐ脇を通るぞ。そこいらにゴロゴロしてっから、勝手に拾えばいい」
「やったあ、ありがとう、桑田」リュックの重さも忘れ、小躍りをする。
「言っとくけど、『象牙』じゃないからな、『象牙石』だ。あんま、期待すんなよなっ」
「わかってるって」上り坂が2割増しで楽になった気がする。
細い登山道の両脇はブナ林だった。あらかた葉が落ちてしまっていて、どこか寒々とした光景である。その分、差し込む陽が多く、空は明るい。
「ここいら、夏に来ると、珍しい虫がいっぱい飛んで来るんだぞ」桑田が言った。子供の頃は年中遊んでいたに違いない。懐かしげに、目があっちへこっちへと移る。
「茂みに、まだ赤く染まったままの葉があるね」あんまりきれいなので、手を伸ばしかける。
「ダメだ、それに触っちゃ」桑田がわたしの手をつかんで引き戻す。「ウルシだぞ、手がかぶれちまう」
「へえー、これがウルシかぁ。漆器に塗るやつでしょ?」鮮やかに紅葉したこの植物から、あの深く黒い光沢が生まれるなんて、想像もつかない。
「じいちゃん、漆塗りもやってたんだ。趣味の範疇だけどな」
ちょっぴり、自慢げにそう言った。
桑田の祖父が言っていた通り、象牙山は登るほどに勾配がきつくなっていく。午前中の間に何度か休憩を取り、石切場へと着いたのは、昼ちょっと過ぎだった。
「ここらで飯にするか」桑田はリュックを下ろして、クリーム色の石の上に腰掛ける。石を切り出したところが、ちょうどステージのようになっていた。
「もう、くたくた。下からだと、たいした山に見えなかったんだけど」わたしも、ぺたんと石の上に座り込む。
「753メートルもあるんだぜ。高尾山なんかより登るもんな」
「それに、あっちはリフトがあるしね」
桑田は、途中で買ってきたらしいコンビニ弁当を取り出して食べ始める。わたしのは、朝早くに起きて作ったおむすびの詰め合わせだ。
山で食べる昼食は、とてもおいしく感じられた。空気が新鮮なせいだろうか。それとも、適度な運動の後だからだろうか。
食事が済むと、わたしはさっそく転がっている象牙石の吟味を始めた。
「とんがったのばっかりなんだね」拾い上げては気に入らずぽいっと放り、また拾い、を繰り返しながら、わたしは言う。
「そりゃあ、そうだろ。砕いたり削ったりして採石するんだしな。ダイナマイトなんかも使ったかもしれないぞ」
「もっと、丸っこいのないかなぁ。手で握った感じが馴染むような」
「よく探してみ。運がよけりゃあ、見つかるだろ」
桑田はリュックを枕にして、ゴロンと横になったまま答える。
わたしは夢中になり、桑田はうとうとと居眠りをする。
角があるものの、比較的なだらかな石を見つけ、ほくほくと桑田のところまで戻る。
「桑田、起きて。ほら、これなんかいいと思わない?」
うーん、と唸って目を醒ます桑田。第一声は、
「今、何時だ?」だった。
わたしは腕にはめた時計を読む。「3時15分」
「ああ、寝過ぎちまったな。これから山頂を目指すと、明るいうちに降りてこられねえ。ここから引き返そう」
きれいな象牙石も手に入れたことだし、異存はなかった。
山道をしばらく下ると、桑田がぽつりとつぶやく。
「わりい、むぅにぃ。この道、さっきのルートじゃなかった」
「道、間違えたってこと?」とわたし。
「ああ。石切場に通じるハイキング・コースって、何本もあるんだ。それにあの場所、広い上に、どこも同じように見えるもんで、出るところをうっかりしちまった」
「じゃあ、さっきのところへ戻ろうか」
「それだと、日が暮れちまうな」桑田は溜め息混じりに言う。「このまま進もう。もう少し下ると、また登り坂だ。その先に山小屋があるんだ。今晩はそこに泊まるしかねえな」
おじいさんが言っていた小屋か。夜の山道を歩くわけにも行かないし、仕方がない。
山小屋には暖炉があって、乾いた薪も用意されていた。
桑田は慣れた手つきで薪をくべ、丸めた新聞紙に火をつけて暖炉に放り込んだ。
「棚にミネラル・ウォーターのペット・ボトルとカップ麺、発見」わたしは言う。
「そりゃあ、助かる。じいちゃん、準備がいいな」
窓の外を振り返ると、もうだいぶ暗くなっていた。無理をして下山していたら、今頃は本当に遭難していたかもしれない。
いつも宵っぱりなわたしも、この日は疲れもあって、早くに眠くなる。
「おれも、今日は寝るよ。朝一で降りるとしような。じいちゃんも心配してるだろうし」
その晩、わたしは夢を観た。
まるで山のように大きなゾウが、のっしのっしと野原を歩き回っていた。わたしはその背に建てられた小さな小屋の窓から、上へ下へと弾む月と星を眺めるのだった。