魔法を習いに行く
チャイムの音がしたので玄関のドアを開けると、中谷美枝子が立っていた。手にはなにやらチラシを握りしめている。
「ねえねえ、むぅにぃ。魔法を習いに行ってみない?」中谷はそう言って、わたしにチラシをみせた。
チラシには、「あなたも魔法を身につけよう! 人生が必ず一変すること間違いなし!」と大見出しで書いてある。住所を見ると、ここからそれほど離れていない場所にあるマンションの一室だった。
「魔法? そんなもの本気で信じてるの?」わたしは思わず口に出す。
「どうせ無料なんだし、試しに行ってみようよ。本物だったらすごいし、もしウソで入会金をふんだくられそうになったら、断ればいいじゃないの」
確かにそうだ。魔法があるとは信じていないけれど、否定する根拠もまたなかった。内心、ちょっと興味はある。
「うん、どうせ暇だし、行ってみようか」わたしはうんうんとうなずいた。
「じゃあ、決まりね。時間は3時だから、それまでテレビでも観て暇つぶししましょう」
「いいよ。コーヒーか紅茶、どっちがいい? ポテチもあるけど」
「あたし、ホット紅茶。今ちょうど、お笑い番組をやってるのよ。それを観ながらのんびりしよう」
わたしはミルクと砂糖たっぷりのコーヒー、中谷にはティーバッグの紅茶を淹れて居間へ持っていく。テレビはすでについていて、中谷の言った通り、お笑いをやっていた。
わたしと中谷はポテチをポリポリ食べながら、ゲラゲラと笑って時間を潰した。
「そろそろ時間ね」と中谷。「じゃあ、行こうか」
「うん」
わたし達はさっそく出かけていった。
5分も歩くと、すぐにその住所へと行き着く。古ぼけたマンションで、1階の案内を見て確認をする。
「3階の3号室だって」中谷がチラシを見ながら言った。階段を上っていくと最初の部屋に、「魔法教室」と書かれた紙がドアに貼られている。
「ここだね、中谷。なんかの説明会みたいな感じがする」わたしは言った。
「まだあと10分あるけど、取りあえず入ってみようよ」
ドアを開けると、折りたたみ椅子がずらっと20脚ばかり並べられていて、すでにちらほらと人が座っていた。
わたしと中谷は、後ろの方の席に腰掛ける。部屋の前の方にはホワイト・ボードが立てかけられているばかりで、あとはなにもない。
中谷と、どんな講義が行われるんだろうね、などと話していると、ドアが開いて、スーツ姿の初老男性が入ってきてホワイト・ボードの前に立った。
「みなさん、お忙しい中をようこそいらっしゃいました」男性がわたし達に向かって口を開く。どうやら、この人が講師らしい。「ここへいらしたということは、みなさんも魔法についてお知りになりたいからだと思います。結論から申しますと、魔法は誰でも身につけることが出来ます。けれど、そのためには基礎となる知識が必要です。本日は、基礎の基礎のそのまた基礎をご説明したいと思います。どうぞ、最後までお聴き願いますようお願いします」
「いよいよ始まるね」中谷はわたしの耳元でそっとささやいた。
講師は軽くコホンと咳払いをすると、
「まず、わたし達とそれを取り巻く世界について考え方を改める必要があります。すべての物質は原子で出来ていることはご存じでしょう。その原子もまた、原子核を中心に電子が回って形成されています。原子核も陽子と中性子が組み合わさったものです。陽子や中性子はクォークというものから成っています。こうしたものを素粒子と呼びます」
「なんか、物理の話を始めたよ」わたしは小声で中谷に言う。
「あたし、物理は苦手だったんだよね」中谷はめんどくさそうに溜め息をついた。
講師の話は淡々と続く。
「では、素粒子とはいったいなんでしょうか。皆さんの中には、それらが丸い粒であるというイメージがおありでしょう。けれど、実際にはそうではありません。例えば電子。これは限りなく小さな素粒子で、中身のない存在であるとされています。また、素粒子は粒子と波と両方の性質を持っています。つまり、これらは振動するエネルギーなのです。こうした学問を量子物理学と言います」
「言ってることわかる?」と中谷。
「さっぱり」わたしはあきらめたように首を振る。
「つまるところ、わたし達も、そして宇宙そのものもエネルギーで出来ている、ということになるわけです。こうした学問を量子物理学と言います。素粒子のレベルでは、日常的に起こりえないことが起こります。たとえば、複数の素粒子が1つに重なり合ったり、物質を通り抜けたりするのです。中でも不可解なのが、『量子もつれ』と呼ばれる現象です。これは、2つの関連性を持った素粒子同士が互いに影響し合うというものです。たとえば、片方が右回りにスピンしていたとします。このとき、もう片方は必ず左回りにスピンするのです。奇妙なのは、双方には情報を伝達する媒体がないという事実です。ケータイ電話を例に挙げて説明すれば、両者の間には『電波』という媒体が必要ですね。けれど、量子もつれにはそれがないのです。この2つの素粒子はどんなに離れていても――たとえ、銀河の果てとは手まで離しても――瞬時にして情報が伝わります。これは光速を超えているということであり、一般相対性理論の『あらゆる物質は光速を超えられない』という理論に反するものであります……」
「ますますわからなくなってきちゃった」中谷がつぶやく。「魔法の方が簡単に思えるくらいよ」
「相対性理論って、アインシュタインでしょ? じゃあ、アインシュタインが間違ってたってこと?」天才と呼ばれるアインシュタインが間違いを犯すことなど、あり得るのだろうか。
「さい、こうした不思議な特性を持つ量子ですが、さらに不思議なことがあります。それは、人間の意識が素粒子の振る舞いに影響を与えるということです。有名な二重スリットの実験がありますね。光子が粒であるならば、二重スリットを通り抜けとあと、その向こうの壁には2本の線状の跡が残るはずです。ところが、実際には多数の干渉模様が表れました。これは、光子が波であることを示すものです。ところが、『観察』をやめると、2本の線状跡が生じました。こちらは粒であることを示すものです。つまり、人間が観察をしているかいないかによって、素粒子は振る舞いを変えるのです」
ここまで聴いていて、わたしはすっかり頭が混乱してしまい、パニックになりかけていた。
「中谷、もうだめ。これ以上話を聞いていたら、頭が破裂するかも」
すると中谷も、
「そうね。あたしももう限界。魔法なんか使えなくたっていいから、帰ろうっか?」
わたしと中谷は、そっと立ち上がり、部屋を出て行った。