洪水
荒川の河川敷を桑田孝夫と歩いている。日曜日なのに、なぜかわたし達二人きりしかいなかった。いつもなら、ボール投げをする子供達、サイクリングをする人、ゴルフの素振りをする人らで溢れ返っているのに。
「今日はやけに静かだね」わたしは桑田に言った。
「ああ、そうだな。平日だってもっと人がいるのによ」
「どこかでイベントでもやってるのかなあ。それで、みんなそっちへ行っちゃってるとか」
「いや、そんな話は聞いてないな。ま、こんな日もあるさ」
それにしても、荒川ってこんなに広かったっけ? 向こう岸が霞んで見える。まるで東京湾からみる房総半島のよう。
「今日の荒川は大河のように見えるね」わたしが述べると、
「そうかあ? こんなもんじゃねえの。荒川はでかいぞ」桑田は別になんとも思わないようだった。
さらに先へと進むと、川の流れが急に速くなってきた。
「雨でもないのに、皮がゴウゴウいってるね」
「おう、そうだな……」桑田は額にしわを寄せる。「こりゃまずいぞっ。早く土手の上に上がれ、むぅにぃ!」
「どうしたの、いったい?」わたしは聞いた。
「いいから、早く!」桑田はそう言うと、わたしの手を引いて土手を上り始めた。
その途端、川岸から溢れ出し、うねりながらこちらに迫ってきた。
「こ、洪水だっ!」振り返りながら、わたしは叫んだ。
「やばいぞっ、この調子だと土手まで水が来ちまう!」
わたし達は土手の上を走り、さらに高いところを探した。
「あ、橋が見えてきた。あの上なら安全じゃない?」わたしは指を差す。
「いや、あの程度じゃ川に飲まれちまうよ。もっと高いところを探すんだ」
そうこうしている間にも、川の水が土手の近くまで迫っていた。流れの勢いはまったく途絶える様子がない。
「どうしよう!」わたしは手を引っ張られながらうろたえた。
「見ろ、土手のそばに屋根があるぞ。あそこへ飛び移ろう」桑田の言う通り、ほとんど土手にかかるくらいの位置に民家の屋根が突き出ていた。
「飛び移れるかなあ」わたしは不安になった。
「おれが最初に飛ぶ。そのあとにむぅにぃ、お前がジャンプしろ。おれがしっかり捕まえてやるから」
こうなったらやるしかない。水に飲まれるよりはずっとましだ。
「行くぞっ」桑田は屋根に飛び移った。土手と屋根の間は2メートルくらい。わたしは助走をつけて屋根目がけて飛んだ。だが、あと30センチばかり足りなかった。それを、桑田が手を伸ばしてわたしの胸元を掴み、引っ張り上げてくれた。
「ああ、助かった。落ちるかと思っちゃった」とわたし。
「ここじゃ土手と同じ高さだ。もっと上に行くぞ」桑田はそう言い、屋根伝いに跳んだり跳ねたりしながら、より高い屋根へと移っていく。
わたしもあとに続くが、時折自分の身長では届かないところがあり、そういうときは、桑田が手を引っ張って持ち上げてくれた。
川の水はとっくに土手を乗り越え、町中を水浸しにしていた。水位がどんどん上がっていき、留まることがなかった。
「もっと上へ行かなきゃダメだっ」桑田が怒鳴った。「あそこを見ろ。風呂屋の煙突が見えるだろ。そこまで行くぞっ」
遠くの方に銭湯の煙突が見えた。わたしは内心、とても焦っている。行き着くまでに水が上がってくる方が早かったらどうしよう。けれど、躊躇している暇はなかった。
「うん、なんとか着いていく」
まるで忍者のように、段差のある屋根を次々と登っていき、ようやく煙突のところまでやって来た。水はもう、足許までやって来ている。
「ようし、ここから煙突の梯子に飛び移るぞっ」桑田は、えいっと飛び、見事に梯子へとしがみついた。
「そんなところまで飛べないよう」わたしは泣きそうになって訴えた。
「そら、手を貸せ。もっと屋根の端まで来いっ」
言われた通り、屋根のギリギリまで立ち、手を伸ばして思いっきり飛んだ。すかさず桑田がわたしの手を掴み、一瞬、宙ぶらりんになったけれど、なんとか梯子に足を載せることができた。
「助かったぁ。あとはどんどん上まで登るだけだね」
「まさか、煙突の上までは水は来ねえだろう」わたし達は急ぎながら、けれど身長に煙突の梯子を登る。
一番上まで来たとき、すでにどの家も水没してしまっていて、淀んだ水ばかりが広がって見えた。
水はなおも上昇していて、ついにはわたしのかかとに触れた。
もうダメか、そう思ったとき、やっと川の水は止まり、じわりじわりと引いていく。
「よっしゃ! 間一髪だったぜ」桑田が梯子の上でガッツ・ポーズを取る。
すっかり水が引くまで、たっぷり30分はかかった。その間、わたし達は様子を見ながら下を眺めていた。
「誰もいないね。みんな、洪水が来るって知ってて、避難してたのかな」
「そうかもな。おれ達だけが知らなかったんだぜ、きっと」
あちこちに水たまりを残した状態で、川の氾濫はすっかり収まった。わたしと桑田は辺りを見渡し、どれだけ高い場所にいるのかを気付かされた。
「ず、ずいぶん高くまで来ちゃってたんだね」今度は高さに震えながらわたしは言った。
「手を滑らして落ちるなよ。ゆっくりでいいからな、気をつけて降りるんだぞ」
言われるまでもなかった。下を見ないようにして、1段1段降りていく。そして、ついに地面の上へと足を下ろした。
「ああ、怖かった。溺れるかと思ったし、高いところもすっごく震えちゃった」わたしはほっと胸をなで下ろす。
「でもよ、けっこうスリルがあって面白かったな。また洪水になれねえかな」そう言うので、わたしはキッと睨み付け、
「もう2度とごめんだってば」
そう吐き捨てたのだった。