小バエになって
桑田孝夫、志茂田ともる、中谷美枝子、そしてわたしは、とある住居の三角コーナーの生ゴミの中から生まれた小バエだった。毎日、ダイコンの葉っぱやキャベツなどのくず野菜を食べ、のんきに暮らしていた。
あるとき桑田が、
「なあ、ここもそろそろ飽きてきたと思わねえ? ちょっと冒険してみようぜ」と言い出す。
「それはいい考えですね」志茂田はさっそく乗ってきた。
「いいわね。あたし、冒険がしたくて仕方がなかったのよ」中谷も賛成する。
わたしはちょっと躊躇した。冒険には危険がつきものだ。何があるかわかったものではない。けれど、優柔不断なわたしは、みんながそう言うのであれば、従うほうがいいと思い直し、
「そうだね、冒険しようか」と半ばしぶしぶ賛同するのだった。
桑田を先頭に、全員が三角コーナーから飛び立った。わたしはしんがりを務めた。小バエになってももたもたしているのは、いかにもわたしらしい。
わたし達が最初に舞い降りたのは、何やら薄黄色い液体の入ったコップの縁だった。
「この中になみなみと注がれているのは、きっと硫酸だよ」わたしは身震いして言った。その証拠に、プクプクと泡立っている。うっかり足を滑らせたが最後、あっと言う間に溶けて無くなってしまうに違いない。
「だったらなおのこと、スリルがあるってものよ」中谷は臆せず答えた。
「要は落ちなければいいだけの話ですよ」志茂田も平然としたものである。
「ほら、何ぐずぐずしてるんだ。さっさと歩くぞっ」先頭の桑田が促す。
わたし達は、コップの縁をごそごそと歩いて回る。硫酸の匂いが鼻をつく。わたしだけが足をガクガクと震えさせながら歩いていた。
そのとき、中谷が足を滑らせてコップの中に落ちた。けれど、翅を素早くばたつかせ、また縁に戻ってきた。
「危ない、危ない。足の先が硫酸に触れそうになったわ」その割りには、意外にも落ち着いた口調である。むしろ、わたしのほうがびびってしまったほどだった。
一周回って、また元の場所に戻ってきた。
「もう一周歩こうか」桑田が言う。わたしは嫌だったが、仲間達の雰囲気に飲まれて、うんとうなずくよりなかった。
「おおっと!」桑田がコップの中に落ちかけた。が、これも素早く飛び立って難を逃れる。というよりも、今のはわざとに違いない。自分から危険に立ち向かっているのだった。
一巡りりして、
「さあ、もう一回!」今度は志茂田が号令をかける。わたしの足はますますふらついてきた。コップの中をのぞいてみると、黄色い液体が恐ろしそうに待ち構えている。じっと見ていると、今にも吸い込まれそうだ。
「あっ!」わたしはついに足を滑らせ、コップの中に真っ逆さま。途中で翅をめいっぱい羽ばたいたが間に合わず、とうとう液体の中に落ちてしまった。
先を歩いていた連中が一斉に振り返り、
「おいっ、大丈夫か!」と叫ぶ。わたしは液体の表面にプカプカと浮かびながら、おや、硫酸にしては体が溶けないぞ、と意外に思っていた。
「なんだか、大丈夫みたい」わたしはのんきにそう叫び返す。
体が溶けるどころか、とっても甘く爽やかな味が口の中に染み込んできた。どうやら硫酸などではなかったようだ。
「待ってろっ、今助けるからな!」勇敢な桑田がブーンと飛んできて、わたしを吊り上げてコップの縁に戻してくれた。
ビショビショになったわたしを、みんなが気の毒そうに見ている。けれど、本人は至って元気だった。
「これ、硫酸じゃなくてレモン・ソーダだよ。ほら、みんなも舐めてみて」わたしが言うと、中谷が恐る恐るわたしの体を舐め始めた。
「あら、ほんと。甘くておいしいわ」
その言葉を聞き、志茂田も桑田もわたしを舐め始めた。おかげで、わたしの体はすっかり乾いた。
「なんでえ、怖がる必要なんて、これっぽっちもなかったな」桑田がちょっとがっかりしたような顔をする。何しろ、彼は冒険がしたかったのだ。
「今度は、向こうの部屋へ飛んでいってみましょう」志茂田が提案した。今度はわたしも乗り気だった。何しろ、狭い台所しか飛び回ったことがないのだ。
今へ飛んでいくと、主人と思しき人物がテレビを観ていた。テレビの画面から発せられる紫外線が、わたし達にはとても魅惑的に思えた。
そこで、次々に画面に止まってその上を縦横無尽に歩き回ったものである。
「うるさい小バエめっ」主人が手でわたし達を追い払う。わたし達はその度に逃げ回るのだったが、どうしても光の誘いに逆らえず、また舞い戻ってしまう。
「おい、小バエが湧いてるぞ。三角コーナーに殺虫剤を撒いとけよ」主人が大声を出す。
「わかってるわ。今、撒いているところだから」台所から妻らしい声が返ってきた。
「まずいですよ、これは」と志茂田。
「おれ達の生まれ故郷が汚染されちまった」
「もう、戻れないのね」中谷はメソメソと泣き出す。
「これからどうしよう……」わたしは困ってしまった。
「なあに、三角コーナーはほかの家にもあるさ」そう言ってみんなを慰めたのは桑田である。「この際だ。ちょうど窓も開いているし、新天地を求めて旅立とうぜ」
こうしてわたし達は窓の外から、降り注ぐ太陽の下、初めての外へと脱出した。
「すぐに見つかるかなあ、新しい三角コーナー」わたしは心配した。
「ありますよ、ありますとも。ごらんなさい。家がたくさんあるじゃありませんか」
「そうね、あのどこかがこれからあたし達の新居になるのね」
わたし達は「新居」目指して飛んでいった。