逃げ出した音符
久しぶりに、桑田孝夫、志茂田ともる、中谷美枝子の4人でカラオケに行く。
「では、まずわたしから」志茂田はページをペラペラとめくると、リモコンの番号を押した。意外にもアニメ・ソングだった。
「失くした~翼は~」しかも、彼のイメージにそぐわず上手い。
「じゃあ、次あたし」今度は中谷がマイクを取る。どんな歌を聴かせられるのかと思ったら、画面に映ったのはなんと演歌だった。
「しぶい曲を入れたね、中谷」わたしが言いかけると、しっと口の前を人差し指で押さえる真似をする。
「あなたがぁあああ~くれた、このハンカチにぃいいいい」しっかりとコブシを効かせて歌う。
「次、むぅにぃが歌って」中谷にマイクを渡され、わたしは慌てて本をめくり始める。あいにく、何を歌うか決めていなかったのである。
「KGB48の『故意するポイズンクッキー』でも歌えばいいじゃねえか。お前、いつも口ずさんでんじゃんかよ」桑田が茶々を入れる。
ほかに思いつかないので、桑田の言う通り、「故意するポイズンクッキー」を歌うことにした。
前の2人が上手かったので緊張したが、なんとか一通り歌い終えた。
「ちょっと声が震えていましたが、中々上手に歌えましたよ、むぅにぃ君」本心かどうかはわからないが、取りあえず志茂田には褒められた。
「よっしゃ、おれのリサイタルが始まるぜ。みんな、しっかり聞いてくれよな」桑田が立ち上がり、マイクを口元に寄せた。歌はExcelsの「高熱の花」だった……。
そのはずだったのだが、桑田がいざ口を開けた途端、モニターから黒い音符が1つ、ポーンと飛び出してどこかへ行ってしまった。
「なんだよっ、おれがせっかく自慢の喉を震わせようとしたのに」マイクを放り投げかねないような剣幕で、そうまくし立てる。
「探そうよ、みんなで。こんな狭い部屋だもん、すぐに見つかるよ」とわたし。音符が、たった1つないだけでも歌は台無しだ。
「で、どの音が逃げたんだ?」桑田は言った。
「ソの音だったわ、確か」さすがピアノをやっているだけのことはある。中谷がそう指摘した。
「その音って、どの音だよ」桑田が聞き返す。
「だから、ソの音だって」
「どれだって?」
「ドレじゃないくて――」
そこへ志茂田が割って入る。
「まあまあ、ドだのソだの言っているから混乱するんですよ。英語で言えば済むことです」
中谷は、あ、そうかと言う顔をして、改めて言う。「Gの音符がどこかへ行っちゃったのよ」
「Gってことは……」桑田は指を折って数え始める。Cがドだから、レ、ミ、ファ、ソ……。「あ、ソかあ」
考えたらどの音が逃げたところでかまわなかった。とにかく、どこかに隠れている音符を探し出せばいいだけのことなのだ。
「どこに行きやがった、おれの曲の音符」桑田はクッションをめくったり、テーブルの下を覗いたりしながら探し回る。
「きっと、桑田に歌われるのが嫌で逃げちゃったんだ」わたしは憎まれ口を叩いた。桑田はわたしをじろっと睨み付ける。
「こっちにはいませんねえ」と志茂田。「モニターの裏かもしれませんよ。ちょっと見てみましょう」
しかしながら、モニターの裏には埃がたまっているばかりだった。
「おっかしいわね。どこへ行っちゃったんだろう」
「誰かのポケットに入ってしまっていませんか?」
そこで一同はそれぞれポケットをまさぐりだした。しかし、誰のポケットにも音符はなかった。
「飛び出したとき、どっちへ飛んでいった?」桑田が聞く。
「えーと、たしかあたしとむぅにぃの間だったかな」
「するってえと、ソファの裏側か。ちょっとどかしてみるから、志茂田、手伝ってくれ」
桑田と志茂田は、ソファの両側を持って移動させてみた。そこにも見当たらない。」
「もう、別の曲にしたら?」探すのに飽きてきたのか、中谷がそんなことを言う。
「何を言う。おれはExcelsの『高熱の花』が歌いたいんだ。何がなんでも探すぞっ」
わたし達はやれやれと溜め息をつく。
「別の歌でも、また音符が逃げちゃったりして」と中谷。
「そんなにおれに歌われるのが嫌なのかよ」桑田はムスッとした顔をする。
「もしかしてですが、誰か踏んでいるんじゃありませんか?」こう言い出したのは志茂田だった。
わたしは自分の足の裏を見てみた。あいにく、音符はなかった。
「こっちにはないよ」
「あたしも踏んでない」
「わたしもです」
残るは桑田だけだった。そっと右足を持ち上げてみると、足の裏にべったりと音符が貼り付いていた。
「あったよ……」思いっきり踏みつけていたせいで、音符はピロンピロンに潰れてしまっていた。
「ま、とにかくモニターに戻しましょう」志茂田がそれを拾って、モニターに放り込んだ。
桑田は歌い始めたが、「ソ」の音のところに来たところで、声がみっともなくでろんと間延びするのだった。
もっとも、そうでなくとも、お世辞にもうまいとは言えなかったけれど。