リンゴをかじって歯が折れそうになる
わたしはゆっくりと目を醒まし、思いっきり伸びをした。
「あれっ? ここはどこだろう」自分の部屋ではなかった。そこはどこかの原っぱで、周囲を果樹林が取り囲んでいる。
起き上がってまず目に入ったのは、真っ赤な実を付けたリンゴの木だった。
「ちょうどお腹がすいてたんだよね」わたしは駆け寄って、リンゴをもいだ。「いっただきまーす!」
リンゴの甘い香りと歯触りが伝わってきた……と言いたいところだったが、前歯がガチッと音を立てただけだった。
なんと、リンゴはガラスでできていた。
「痛っ! なんでガラス製――」ふと、向こうを見ると、そこには桃がなっている。わたしはガラスのリンゴを投げ捨てると、モモの木に向かった。
モモをもいでみると、それは陶器製だった。ここの果樹園には本物の木の実が何もないとみえる。
「かえって腹ぺこになってきちゃったなあ。1本くらい、本物の実を付けてないかなあ」ブドウの木もあった、ナシもあった。けれど、どれもガラスや陶器、木でできていた。「まるで、嫌がらせとしか思えないよ。見た目はこんなにおいしそうなのにさ」
不思議なことに、樹木だけは本物だった。それなのに、実はどれも偽物なのだ。
「変なところにきちゃったなあ。というより、いつこんなところに来たんだろう?」わたしは、夕べのことを頭を捻りながら思い出そうとする。
たしか、アガサ・クリスティのミステリーを途中まで読み、しおりを挟んでベッドに入ったはずである。
はっと閃いた。そうだ、これは夢だ。そうに違いない。
試しに、自分のほっぺたをつねってみた。痛かった。
「そういえば、夢の中でも痛いものは痛いんだよね」そう思い出す。すると、これが夢であるという証拠は何もないことになる。
けれど、ガラスのリンゴが実るはずもないし、絶対に夢でなくてはおかしい。
それとも、自分でも知らないうちに異世界へやって来てしまったのだろうか。
「まあ、夢なら夢でもいいや。そのうちに目を醒ますだろうしさ。でも、本当に異世界だったらどうしよう。その場合は、なんとしても帰り道を探さなくちゃね」
どっちつかずの世界を、わたしはてくてくと歩いていった。果樹園を抜けると、そこは丘の上だった。
丘のはるか下には、積み木を並べたようにカラフルな家々が並んでいた。小さな町だった。
「あの町まで降りていこう。住んでいる人も、きっと妖精か何かの格好をしているんだろうけど」
町は人で賑わっていた。少なくとも、妖精の姿はしていない。着ているものだって、ごくごく普通だった。
わたしは1人の女性を捕まえて聞いてみた。
「あのう、すいません。ちょっと、お尋ねします」
「はい、なんでしょう?」
「ここって、夢の中ですか? それとも、どこか別の世界なんでしょうか?」
女性は一瞬、驚いたような顔をしたが、一応、答えてくれた。
「ここは新宿でしょ? もしかして、電車を間違えちゃった?」
「ええーっ、ここが新宿なんですか?!」今度はわたしが驚く番だった。新宿といえば、高層ビルが建ち並び、町は店でいっぱいのはず。けれど、今いるところは近くに果樹園があり、丘を越えるとこざっぱりとした家ばかり並ぶ、小さな町があるばかり。
どこをどう見ても新宿には見えなかった。
「じゃあ、じゃあ、池袋もこんな感じなんですか?」わたしは聞いた。
「池袋なんて、もっと田舎よ。町なんか小さくて、森ばっかり。比べものにもならないわ」
少なくとも、池袋はあるようだ。たぶん、自分の知っている町はみんなあるのだろう。けれど、自分の知っているそれとはまるで違う。
「やっぱり夢なのかなあ」そんなわたしのつぶやきを聞いて、女性は言う。
「あら、夢なんかじゃないわよ。ここは現実。それに別の世界でもないわ」
「夢の中の人はみんなそう言いますから、信用できません」きっぱりとそう言い返してやった。
「変な人」女性は怪訝そうな顔をして去っていった。
ますます、わからなくなってきた。ここは夢の中だろうか、それともいわゆるパラレル・ワールドというところだろうか。
町の真ん中に、ひと際目立つ塔が立っていた。1つ賭けに出てみるとするか。
わたしは塔を目指して歩き始めた。塔はどうやら見晴らし台らしく、上のほうに展望が見える。
わたしは塔に上り始めた。螺旋階段がぐるぐると続く。いつかこんな塔を上ったことがあったなあ、と思い出す。そうだ、あれは御前崎の灯台だった。
塔のてっぺんまで来ると、周囲が一望できた。さっきの果樹園も見える。それ以外は森で、ぽつんぽつんと町並みが確認できた。
路線から見て、あそこが原宿で、あっちが渋谷だな、と見当を付ける。
わたしは手すりから下を眺めた。思っていたよりもずっと高い。
「よし、夢なら醒めるはず。さもなければ――」手すりを越えると、思い切ってえいっと飛び降りた。落ちていく間の長かったこと。
次の瞬間、わたしははっと目を醒ました。いつの間にか眠っていたらしい。
辺りを見渡すと、そこは果樹園だった。真っ先に見つけたのは真っ赤な実を付けたリンゴの木だ。
「あれもどうせ、ガラスなんだろうなあ」そう思いつつも、実をもいでかじってみた。
ガリッと音がして、危うく歯が折れるところだった。
「ほらね」わたしはリンゴを投げ捨てた。
遠くに町が見える。まるで、積み木のようにカラフルだ。
「あそこは市ヶ谷辺りかな。それとも、あの大きさだから、新大久保かもしれないなあ」
わたしはとぼとぼと歩いていった。