赤い絵の具箱
わたしは、赤い絵の具箱を手にぶら下げ、浜辺をのんびりと散歩していた。この絵の具箱は、小学校の頃からずっと大事に使っているものだ。どこへ行くにも持ち歩き、思い立つと、その場で画板を広げて絵を描く。
波打ち際で、バシャッと水が跳ねる。ハッとして目を向けると、明るい灰色をしたクジラが、跳び上がったところだった。
「うわぁ、でかいな! 100メートルは超えていたに違いないっ」わたしは思わず叫ぶ。
わたしは砂浜に座り込み、画板と絵の具箱を下ろす。印象が薄れないうちに、今の光景を画用紙に写し取るのだ。
「白い砂浜、真っ青な海、波しぶき、空、入道雲……そして、島のように大きな、シロナガスクジラ」描き入れるたび声に出してつぶやきながら、わたしは筆を滑らせていく。
描き終わると、立ち上がって、足やお尻の砂を払う。
「さてと、町にでも行ってみようかな」
わたしは浜を後にする。
しばらく行くと、団地に入った。60階はあろうかという棟が、何十も群れ集まったマンモス団地だ。
「見上げていると、首が痛くなっちゃうな。それにしたって、すごい。まるで、新宿のビル街にでも来たみたい」
ここも、ぜひ絵に残しておきたい。花壇のレンガに腰掛けると、さっそく筆を取り出す。
団地は、灰色をしたコンクリートが高く高くそびえていた。棟を表す番号がペイントされている以外、なんの模様もない。ベランダに干された布団や洗濯物だけが、唯一彩りを加えているばかり。
「どれもおんなじ作りだから、番号がなかったら、きっと迷っちゃうな」団地と画板を交互に見ながら、わたしは思わずにはいられなかった。
団地の中を歩いてみる。中央を貫くメイン・ストリートと、そこから各棟へ向かって延びる小道が、さながら魚の骨のよう。
「行けども、行けども、高層ビルが建ち並ぶんだ。なんだか、このまま団地から出られないような気がしてきた」そんなことがあるはずはないのだけれど、あまりに広く、距離感が正常な働きをしてくれない。
小一時間ほどかけ、ようやく団地を抜ける。この団地で過ごすとなると、クルマが必需品になるなぁ、わたしは感想を抱いた。
団地の外は、広々とした商店街が真っ直ぐに伸びる。ダンプが横に4台並んで走っても、余裕で通れるほどの道だ。
様々な店が軒をぎっしりと連ねている。精肉店、八百屋、金物屋、雑貨店、パッと目に入っただけでもこんなにある。きっと、この商店街には、ない店などないに違いない。
残念なことに、どれ1つとして開いていなかったけれど。
どの店舗もシャッターが降りているか、雨戸が閉まったままだった。
古くなったアスファルトと相まって、何もかも灰色にくすんで見える。当然、人もおらず、遙か先まで見通せた。
「店を閉めて、もう何年にもなるんだろうなぁ……」思いがけず、溜め息が洩れる。街灯の先には、作り物のサクラの花の飾り付けがある。今年で、何度目の春を見てきたのだろう。
わたしは、薬局前のベンチに座ると、赤い絵の具箱を開いた。
「いつか、また賑やかな商店街が戻ってくるといいけれど」静かな町並みは好きだけれど、繁華街はやっぱり活気があった方がいい。
かつて、大勢の人が行き交っていた頃を思い浮かべつつ、わたしは画用紙に色を塗り重ねた。
商店街はどこまでも続いた。いっそ、終わりまで歩いてみようか、などと考えたが、途中の十字路で見た横道が面白そうだったため、そちらへ足を向ける。
十字路を右に曲がると、緩やかな坂道になっていた。高台へと続いているようだ。
坂道を歩いてみると、ずっと上の方でカーブして先が見えなかった。そのカーブへ差しかかってみてわかったのは、切り立った崖に沿って登っているということ。
崖の下には、深い色を湛えた海が広がっていた。遠く沖の方で、何かが銀色に光った。
「ああ、あれって、さっきのシロナガスクジラかも」両手をかざして、目を凝らす。
緩やかに見えた坂も、こうして登り続けていると、けっこう堪えてくる。
「こっちの道に来たのは失敗だったかなぁ」若干の後悔を抱きつつも、ここまで来て戻るつもりはなかった。せっかくだから、頂上まで登ってやろう。
わたしはいくらか強情なところがあったのだ。
途中、何度か休憩を取りながらも、わたしはようやく、坂を登り切る。
そこは平にならした土地だった。灰色をした十字架が、何千も立っている。
墓地の中をさまよい歩いてみると、十字架は朽ちかけて、ボロボロだった。塗られていた白いペンキも、あらかた剥げて、ほとんど残っていない。
中央の方に、十字架とは違う、何かもっと白い塊が散らばっているのに気付いた。
「なんだろう? 白骨のようだけど……」近づいてみると、確かにそれは骨だった。それも、とんでもなく大きい。幅10メートル、長さ30メートルほどに渡って、散乱していた。
周囲をぐるりと回ってみて、ははーんと察する。
「これはクジラの骨だな。どうやって、崖のこんな上まで登ったのかわからないけど、間違いない」
わたしは、近くに転がっている大きな石に腰を下ろした。このクジラの骨を描こうと思いついたのだ。
ふと、今、自分が座った石から凄まじい悪臭が放たれていることに気付く。
「うっ、臭っ……これは――」慌てて立ち上がると、鼻を手で摘んだまま、まじまじと石を観察する。「ああ、やっぱり。こいつ、クジラの尿結石だ」
石から離れようとして、ふと思い出した。
「そういえば、これって高く売れるんだったっけ。少し欠いて、持っていこう」
わたしは、浜辺から別の石を拾ってきて、クジラの尿結石をガンガンと叩く。ぼろっと、欠けらが落ちた。
「売って、絵の具代の足しにでもしようっと」わたしは欠けらをポケットに押し込むと、その場を後にした。