灰色の部屋
四畳半ほどの部屋の中には、テーブルとイス。そのテーブルの上には、20インチの薄型モニターが置いてある。
それだけだった。ほかには何もない。周囲は灰色をした打ちっ放しのコンクリート。窓もなければ、ドアさえない。
そんな殺風景な部屋に、わたしは「ずっと昔」から住んでいた。
「あーあ、退屈してきちゃったなぁ。『テレビ』でも観るか」わたしは、モニターの画面に触れる。タッチ・パネルになっていて、検索窓とソフト・キーボードが現れた。
「そうだなぁ、久しぶりにSFなんかいいかも」わたしは、「SF」と入力する。画面いっぱいにタイトルが表示され、すぐに物語が始まった。
「ブルー・ムーン」
未来、月は人類にとって、宇宙への踏み板となっていた。数百年もの歳月をかけ、テラフォーミングが施された。大気も水もない、かつての荒涼とした光景とは打って変わり、今や第2の居住星となって、豊かな緑に包まれている。
わたしは、静かの海区に住んでいた。職業は重力制御監視員。月の中心には、人工重力制御装置が納められている。もともと地球の6分の1しかなかった重力を、地球と同等に補正し、自転させるためのシステムである。
おかげで、地球にいる時となんら変わらない生活を営むことが可能だ。
わたしはそのコンディションを監視し、メンテナンスを行うという重要な任務に就いている。もっとも、肩書きのない、いわゆる平だったけれど。
その日も、エレベーターで60キロほど降りた先の、観測エリアへ出勤する。
「土澤先輩、お疲れ様です。交代の時間ですよ」わたしは、計器類の最終チェックをしている、年配の監視員に声をかけた。
「おう、むぅにぃ。もう、そんな時間か。あと、何ヶ所か針を視ちまうからな、ちっと待っとれや」そう言いながら、ボードにレ点を付けていく。
「それにしても、このすぐ下がマントルだなんて、未だに信じられません」わたしは言った。
「この部屋だって、ガンガン冷却してっから、こうしていられるんだぞ。停電にでもなってみろ。1分と、もちゃしねえ」
「そうですね。トラブルがあった時、われわれ作業員がここで押さえ込まないと、もうどうしようもない。だから、こんなギリギリのセクションが設けられているんでしたっけ」わたしはうなずく。重力制御装置は、これよりも遙か下、コアの中心に沈んでいた。万が一、動力が途切れれば、冷却装置が停止し、重力制御装置どころか、このエリアもろとも燃え尽きてしまう。
一方、地表では重力が一気に軽くなり、しかも自転が急停止してしまうため、表層がズルリと剥けて、宇宙へ弾き飛ばされるだろう。あとには、真っ赤に焼けただれた月だけが残るのだ。
突然、照明が落ちた。ルーム内にアラームが鳴り響き、赤燈も明滅を始める。
「いったい、何がっ?!」わたしは恐怖に駆られた。すべてのドアが全解放になる。電力消失の際、所員の閉じ込め防止のため、安全装置が作動するのだ。
「いかん、一次電源が切断されたぞ。予備電源はどうなっとる? なぜ、切り替わらんのだっ!」土澤先輩がわめき立てる。
「配電室へ行って、手動で換えてきますっ」わたしは、開きっ放しのドアに向かって駆け出した。廊下は、他の部署の担当職員がバタバタと走り回っている。
「すいません、どいて下さいっ。道を空けて下さい!」かき分けるようにして、配電室を目指した。
配電室を目の前に、わたしは愕然とする。ここはセキュリティ・ドアで、室内に人がいない場合、ロックされたまま開かないようになっていた。
そして、今まさに、頑丈な鋼鉄製のドアは閉ざされた状態だったのだ。
「もう、おしまいだ……」わたしは、ドアの前にひざまずいて、がっくりと頭を垂れる。
周囲の温度が急速に上昇していく。冷却装置が停止したためだ。
月は再び死の星に戻ろうとしていた……。
ハッ、と気付くと、あの見慣れた灰色の部屋だった。映画に熱中するあまり、あたかもそれが自分の生活と見まがっていたのである。
「憧れの月世界へ移住して、ついにはそこで最期を迎える。ああ、思えば波乱に富んだ人生だったなぁ。でも、これって、1本の映画を観ていたに過ぎないんだよね。本当は、この窮屈な部屋こそが現実なんだから」わたしはふぅっ、と溜め息をついた。
物語が非凡で、かつ緩急に富んでいるほど、心惹かれるもの。けれど、終わってしまえば虚しさばかりが募る。
「次は『リアル』な話にしようっと」わたしは、タッチパネルを指でなぞった。
「灰色の部屋を飛び出して」
四畳半ほどの部屋の中には、テーブルとイス。そのテーブルの上には、20インチの薄型モニターが置いてある。
それだけだった。ほかには何もない。周囲は灰色をした打ちっ放しのコンクリート。窓もなければ、ドアさえない。
そんな殺風景な部屋に、わたしは「ずっと昔」から住んでいた。
「退屈してきたなぁ。何しろ、時の始まりから、ずっとこの部屋にこもったきりだし」いつもなら、映画を観て気を紛らわせるところなのだが、今はそれすらもおっくうだった。
その時、コンコン、とノックの音がする。
「あれ、誰だろう? この世には自分1人しかいないはずなんだけどなぁ」気のせいかもしれないと思い、知らん顔をした。すると、再びノックの音。
「どなたですかー? せっかく訪ねてきてもらってすいませんけど、ここってば、ドアがないんですよね。中にお招きしたくても、それじゃあどうにもなりません」外に聞こえるよう、できるだけ大きな声で答える。
「ドアなんて、あると思えばあるものですよ」壁越しに、くぐもった声が返ってきた。「あなたはご存じないようですが、ほら、外にはちゃんとドアが付いていますよ。開けてもかまいませんか?」
「そっちにはドアがあるんですか。ちっとも知りませんでした。それなら、ぜひ、開けてみて下さい」わたしは頼んだ。
「では、開けますよ」ギィーと軋ませながら、壁の一部が長方形にくり抜かれる。「さあ、開きました。わたし、志茂田ともると申します」
「あ、どうも。むぅにぃです。なんだか、初めて会った気がしないのですが」わたしは言った。
「何を隠そう、実はこのわたしもなのですよ」志茂田が頭をかく。
「お茶でも差し上げたいんですけど、あいにく、部屋には何もなくって」わたしは困って、肩をすくめた。
「なあに、かまいませんよ、むぅにぃ君。それならば、あなたの方でこちらへおいでなさい。外の世界はいいものですよ」
わたしは生まれて初めて部屋を出る。
「外って、めちゃくちゃ広いんだ」わたしは感極まって声を震わせた。
「広いなんてものじゃありませんよ。何しろ、限りがないのですから」志茂田は、至極当然のように言う。
「今までいた部屋は四畳半だったけど、その何倍くらいあるの?」
「難しい質問ですが」志茂田は、考え考え答える。「その部屋をまず、1兆分の1にまで縮小するとします」
「うんうん」とわたし。
「それをさらに1兆分の1にしてですね、後楽園球場1千兆分の敷地に、ずらっと並べましょうか」
「それって、すごい数になるよね。で、それから?」
「隙間なく並べ終わったところで、ようやく準備が終わりました。あとは、この繰り返しを永遠に続ければいいのですよ。ご理解、いただけましたか、むぅにぃ君?」
頭がクラクラしてきて、もう少しで目を回しそうになったけれど、言葉では、
「うん、よくわかった」とうなずいた。
「では、一緒に原子を数えに行きましょうか。1粒たりとも余さずに」志茂田が誘う。
「長い旅になりそうだね」それでも、じっと閉じこもっているよりは楽しそうだった。
画面がプツッと途切れて、ようやくわたしは正気に返る。
「この部屋の外に世界が広がる、か。そんなことありっこないとわかってるけど、でも、確かにリアルだったなぁ」
今にも、壁に四角い穴が空きやしないか、じっと目を凝らす。
けれど、目に映るのは、いつもと同じ灰色のコンクリートばかり。