大きなモモ
「3月3日が、なぜ桃の節句か知ってる?」七段飾りのお雛様を前に、中谷美枝子が聞いてくる。
「えーと、平安時代に誰か偉い人が決めたんだったっけ?」確か、そんなことを歴史の授業で習った覚えがあった。
「違う、違う」中谷は、そんなわたしの答えを予想していたように笑う。
「中国とかほかの国から伝わってきたとか?」
「中国が何千年の歴史だか知らないけど、そんなのよりも、もっとずっと大昔からあったのよ」と中谷。
「メソポタミアだっ!」わたしは叫んだ。
「ブーッ!」すかさず、ブザーが鳴る。「地球の文明じゃないもん。遙か彼方の宇宙から始まったんだってさ、この行事って」
一瞬、この友人が、わたしをからかっているのではないかと疑った。
「それって、冗談なしで言ってる?」
「ほんともほんと、志茂田からはっきり聞いたもの。その志茂田は、今月号の『ムートン』を読んで知ったんだって。だから、間違いないよ」真剣な面差しで訴える。
「『ムートン』ねぇ……」志茂田ともるはともかく、あの雑誌にそんな信憑性があったろうか。科学雑誌を謳っているけれど、怪しげな論評も、面白おかしく載せていたりするからなぁ。
「あー、むぅにぃ。あんた、信じてないでしょ? 志茂田の言い方、心からまじめだったよ」
「そりゃあ、志茂田だし、ふざけて言ったんじゃないだろうけど」どちらかと言うと、堅物だ。「もしかしたら、『ほら、こんな説もありますよ』というつもりだったのかもよ」
「こんな夢のある話だもの、ほんとだと思うなあ」
夢やロマンだけで歴史を語れるなら、この世は詩人で溢れてしまう。
「そもそも、どんな出来事だったの?」わたしは尋ねた。
「天の川のことなの」中谷が話し出す。「イッカクジュウ座ってあるでしょ。天の川に架かるようにして輝く、冬の星座よ。その辺りに、バラ星雲があるって、あんた知ってる?」
「バラ星雲なら、原色宇宙図鑑で見たことある。ピンク色をした、バラそっくりなガス星雲だよね」折り重なる花びらが、怖いくらい幻想的だった。
「あたし達、あれがバラだと思っているけど、本当は違うらしい。モモなのよねっ」
「えっ、ほんと?!」そう言えば、モモだってバラ科だ。
「あれはね、宇宙のモモなの。年に1度、1個だけ実を付けるんだって。それがポロッと落ちて、天の川を下っていくわけ」
そこまで聞いて、だいたい先が読めてきた。
「モモが川に落ちるのが3月3日なんだ」
「そうそうっ。でも、それで終わりじゃないんだよ。モモ、どこに流れ着いたと思う?」
「そんなの、わかんない」考えるより前に答える。天の川に岸があるなんて、想像すらしたことがない。そもそも、上流や下流なんてあったのか。
「決まってるじゃないの。アルゴスよ、アルゴス」中谷が言った。今トレンドの町なのよ、そんな口調である。
「アルゴスってどこさ?」聞いたこともなかった。
「ギリシャの都市よ。もともとは銀河にあって、古代ギリシャ人が自分の町の名に付けたの」
「それで、辿り着いたモモはどうなったの? まさか、桃太郎が生まれてきた、なんて言わないよね」
「あら――なんで、わかったの、むぅにぃ」中谷が目を丸くする。「もちろん、桃太郎ってわけじゃないけれど、確かに英雄が生まれたのよ。ペルセウスって言う」
わたしは口をポカンと開けたまま、なんと言っていいやらわからなくなった。桃太郎がギリシャ神話だったという意外な展開よりも、それらをすっかり真に受けている中谷にこそ、驚いた。
黙ったままのわたしを、中谷は探るような目で見る。
「もしかして、疑ってる?」
「疑うっていうか……」あまりに突拍子もないので、受け入れることさえできずにいた。
「いいわ。じゃ、証拠を見せてあげる」そう言うと、席を立つ。自分の部屋に行ったようだ。
10数え終わるかどうかのうちに戻ってくる。手には、何やら雑誌を持っていた。
「はい、これ。志茂田に借りたの。しおり挟んであるとこに、今話したことが、余さず書いてあるよ」
手渡されたのは、くだんのオカルト雑誌「ムートン」だった。
「証拠って、これのこと?」内心、呆れてしまう。光り輝くピラミッドのイラストが踊る表紙からは、とても学術的な文献に見えない。
しおりのページを開いて、ざっと目を通す。中谷から聞いた通りの筋が描かれていた。物語として読むのなら、十分に楽しめる。
「だけど、終わりの方に、『こんな推測もできるものである』って書いてあるじゃん。この記事を紹介した志茂田だって、きっとネタのつもりだったんじゃないのかなぁ」
「そこまで言うんなら、今晩、天の川を見てみない? 3月3日の夜7時ちょうど、バラ星雲からモモが流れ落ちるはずだから」中谷が持ちかける。
「中谷んち、天体望遠鏡とかあったっけ?」
「すっごく大きなモモだよ? 大丈夫、肉眼で見えるから」そう請け負うのだった。
「うん……じゃ、つきおうっかなぁ」どうせ、見えっこない。わたしは高をくくっていた。雛祭りの晩にそんな天体ショーが起こるのなら、もっと世間的な賑わいがあって当然だ。現に、わたしは生まれてこれまで、聞いたことすらなかった。
宇宙にモモなんてないとわかれば、さしもの中谷も、夢と現実の区別が付くだろう。
7時近く、2人して2階のベランダに立った。澄み渡った夜空には、無数の星が輝いている。
「こっちが南東」中谷は、真正面を指差す。「ほら、あそこにオリオン座が見えるでしょ? 肩の辺りにある赤い星がベテルギウス、そのずっと下にはオオイヌ座のシリウス。それから、反対側の明るい星はコイヌ座のプロキオン。この3つをつないだのが冬の大三角形。ほら、三角形の間を縫うようにして、天の川がうっすらと見えない?」
「けっこう、詳しいんだ」お菓子や料理作りばかりかと思っていたので、意外に思った。「バラ星雲ってどこ?」
「ベテルギウスからプロキオンに向かって、3分の1くらい行ったところ、ぼんやりとピンク色をしたもやがあるよね?」
辿っていくと、天の川に浮かぶバラの1輪が見えた。
「うんうん、あった」
「あれがバラ星雲。ちょうど、イッカクジュウの瞳なんだから」中谷は、自分こそ目に光を湛えている。中谷には、イッカクジュウ座がはっきりと見えているらしい。
残念ながら、わたしにはわからなかった。
中谷がスマートフォンにちらっと目を落とす。
「あと10秒で7時になるよ」
わたしは、バラ星雲をじっと見つめた。
ポンッ! 宇宙の彼方から、確かにそんな音が聞こえた。
「ほら、落ちた!」中谷が小さく叫ぶ。星で輪郭をかたどられた大きなモモが、天の川をどんぶらこ、どんぶらこ、と天頂へ向かって流れていく。
「ほんとだ。産毛の1本1本まで、はっきりと見えるっ」わたしは、すっかり有頂天になっていた。「いったい、どこまで行くんだろう」
「もちろん、ペルセウス座までよ。そうでしょ?」そう、中谷は当たり前のように答えるのだった。