頭のよくなる方法
「じゃ、次っ。むぅにぃ君」先生に名前を呼ばれ、わたしはドキドキしながら教壇へ向かう。「うーん、赤点ギリギリだぞ。もうちょっと、がんばろうな」
「はい……」わたしは、受け取った理科のテストを手に、こそこそと席へ戻る。机の下に隠しながら、そっと開いた。
自信のあった解答にまで、バツが付いている。
問1.白色雑音とは何か説明しなさい。
答え 〔シャーッという音です 〕
これって、間違いだったのか。
「ああ、今日はうちへ帰りたくないなぁ……」なんだか、胸が息苦しく感じられてきた。
まず、母にさんざんお小言をもらうだろう。夜になって、父が帰ってくれば、もう1度ガミガミと説教をされる。テスト用紙、隠しちゃおうかな。黙っていればわからないはず。
「よっ、むぅにぃ。テストどうだった?」桑田孝夫が、広げたわたしの答案を覗こうとする。
「ちょ、ちょっと!」慌てて閉じ、机の中へしまう。
「いいじゃねえか、見せてみろよ。おれのも、ほらっ。見せてやるからよおっ」桑田は、自分のをわたしの前へと突き出した。20点だった。
「うわっ、これはすごいね」わたしは思わず唸った。「完全、赤点じゃん」
「なーに、追試ぐれえ、どうってことねえや」けろっとして答える。「さっさと、お前のも見せろよ。なんだかんだ言ったって、おれよかいいんだろう?」
わたしは、しぶしぶテストを取り出す。
「ふん、セーフか」桑田はつまらなそうに言った。「あ、『白色雑音』のところ、おれはできてたぜ。答えはな『すべての周波数が同じ強度となった波形』だぞ。いろんな音程が、集まれば集まるほど、だんだん音程感を失っていくんだ。授業で、先生がしつこく言ってたろ?」その1問がたまたま合っていたからと言って、点数が足りないことに変わりはないのだが。
放課後、下駄箱で靴を履き替えていると、桑田がバタバタと追いついてきた。
「なあ、むぅにぃ。お前、頭よくなりてえと思わねえか?」
一瞬、何を言ってるのかわからなかった。さては、からかおうというんだな。
「ばかにする気っ?」わたしは食ってかかった。
「違う、違うっ。そうじゃねえって」桑田は手をブンブンと振って否定する。「今さっき、隣のクラスの奴らが話してんのを聞いたんだけどよ、成績アップの方法があるんだとよ」
「それって、大変そう?」わたしは聞いた。
「いや、簡単だ。隣町の森林公園あんだろ。そのずっと奥にある杉林、そこの枝先からしたたり落ちる朝露を頭に浴びりゃいいらしい」
「そんなんで、ほんとに利口になるの?」当然、わたしは疑った。
「3組の森田、あいつも、そこで朝露を頭に浴びてから、めっきり勉強が出来るようになったんだぜ」
森田勇作か。小学校の時、クラスが一緒だった。その頃は、いつも居残りをさせられていたっけ。それが今では、学級委員を務めている。
「ダメで元々だし、試してみようか」わたしは言った。森田のことを引き合いに出され、気持ちが傾いだのだ。
「よし。じゃ、次の日曜、朝6時に駅な。あんま遅いと、朝露が消えちまうからよ」
「うん、わかった」
約束の日曜日、桑田とわたしは、電車で2駅の隣町へやって来た。駅を降りて、徒歩15分ばかりで森林公園に着く。
「この中って、けっこう広いよね」土のままの遊歩道を歩きながら、わたしは言った。
「ざっと5分くらいか。まあ、1本道だから迷うこともないが」
この辺りはプラタナスばかりで、さっぱりと枯れている。
やがて、先の方に緑濃い景色が現れた。杉林だ。常緑樹なので、1年を通じてうっそうとしている。
「杉の下に来ると、空気が変わるね」わたしは、深々と息を吸う。テルペン物質の香りがさわやかに感じられた。
「おっ、冷てえっ! ツムジんとこに、ポツンと来たぜ」桑田が声を上げる。
「やったじゃん。1粒分、賢くなったね」わたしも、落ちてくる朝露はないかと、梢を見上げた。
差し込む朝日を透かして、あっちでもこっちでも、キラキラと水滴が降っている。けれど、なかなか頭に当たってはくれない。
「あんなにたくさんこぼれてるのに、案外、難しいね」行ったり来たりと駆け回りながら、わたしは桑田に言った。
「だな。おれも、まださっきの1回きりだ」桑田も、落下地点に目星を付けては、頭を差し出していた。
うろうろしていると、首筋にピチョッと冷たい水が入り込んだ。
「ひゃぁっ!」思わず、叫んでしまう。
「やったか?」桑田が向こうから振り返って聞いた。
「ううん、背中に入った。あーあ、惜しかった。もうちょっとずれてればなぁ」
10分ばかりそんなことをやっていたけれど、わたしは5滴、桑田も7滴ほど、髪を湿らせるに留まった。
「1滴辺り、どれくらい頭よくなるの?」とわたし。
「さあな、そこまでは聞いてねえ。たぶん、テストの点数1点くらじゃね?」桑田の答えも当てにはならない。
だんだん、面倒になってきた。何か、もっと効率のいい方法はないものか。
「あ、そうだ」ふと、案が浮かぶ。「ねえ、桑田。ちょっと、木を蹴ってみない?」
「お、おうっ」桑田は、すぐそばの杉の木を、ドンッと蹴った。一瞬、間を置いて、ザーッと朝露が降り注ぐ。たちまち、わたし達は全身までぐっしょりと濡れそぼった。
「冷たいっ! でも、やったーっ!」
「こりゃ、いいな」桑田はさらに別の木を蹴る。にわか雨のように落ちてくる。
「タオル持ってきておいてよかった」
「おれも持ってきた。なら、思いっきり濡れたってかまわねえな」
それから30分以上も、木を蹴っては朝露を浴び、を繰り返した。
「もう、何滴くらい受けたと思う?」わたしは桑田に声をかける。
「さあなあ。1万発くらいかもな」
「それじゃあ、だいぶ賢くなったろうね」
「そのはずだけど、どうも変だ。今、試しに九九を思い浮かべてみたんだが、一の段から全然、思い出せねえ」
「そんなわけないじゃん。1×1は――えーと、えーと、あれ?」桑田の言う通り、答えがわからなくなっていた。
「なっ、おかしいだろ? どうなっちまったんだ」
理科のテストが、ちらっと頭をよぎった。白色雑音についての問題だ。すべての周波数が混ざり合うと、もう音程として聞き取れなくなる、そんな答えだったかなぁ。
知識も、それと同じなのかもしれない。1つ1つはちゃんとした意味を持っていても、詰め込みすぎると、結局何もわからなくなる……。