ジャングルジムに登る
池袋へは終電で到着した。ホームを下り、長い地下構内を、要町方面へと歩く。背後では次々と照明が消え、区間ごとのシャッターがガラガラと下りた。
「もし、中に人が取り残されていたらどうするんだろう?」つい、心配になる。外気よりは暖かいだろうから、凍えることはなさそうだが。
そもそも、辺りを見回しても、ほかに人っ子1人ない。どうやら、わたしが最後の客らしかった。
C1出口で地上へ出る。中が暖かかった分、夜の空気が身に染みた。山の手通りに向かって、のんびりと歩いて行く。
不動産屋を過ぎ、小道の角に差しかかった時、ふと違和感を覚える。
「あれ、こんなところでビルの建設なんかしてたっけ?」すぐ目の前に、10階建てくらいの鉄骨がそびえていた。今朝通った時は工事などしてなかったのに。
最近の施工は速いなぁ、そう思いつつ行き過ぎようとした。そばまで来て、建設中の鉄骨などではないことに気付く。
「ええっ?! これって、超巨大なジャングルジムじゃんっ」驚いたのなんのって。
入り口の鉄門扉には鎖が巻かれ、南京錠がかけられていた。ぶら下がっている看板には、「近日オープン! ウルトラ・スーパー・ジャングルジム! 地上37メートル! 世界一高いジャングルジムを、あなたは登り切ることができるかっ?!」と謳い文句が踊る。
わたしは門の前に立ち、体をのけぞらして見上げた。
「すごい……。あんなところまで登っていったら、足が震えちゃうな」
それどころじゃない。うっかり、手でも滑らせたら、真っ逆さまだ。まさに命がけである。
門の向こうにチケット売り場が見えるが、暗がりの中、目を凝らすと、入場料は大人1,500円、子供700円とある。
「お金を払ってまで、こんな危険な目に遭いたいって人の気が知れないよ」わたしは呆れた。
ジャングルジムの下の方の段で、人影が揺れた気がした。ちょうど、2階ほどの高さだ。
気の早い冒険者が、こっそり忍び込んでいるのかもしれない。それとも、犯罪者が隠れ場所にしているのだろうか。
どちらにしても、関わりになるのは嫌なので、さっさと立ち去ることにした。
わたしが1歩踏み出すと、それを呼び止める声がする。
「なーんだ、逃げ出しちゃうのか。クスッ、弱虫だなー」明らかに子供の声だった。
真夜中に、しかもこんな危険な場所で遊んでいるなんて!
「こらぁっ、ダメじゃん、こんな時間に外へ出てちゃっ」門の格子の間から、そう叱りつける。
「そんなの、お前にカンケーないだろーっ」すぐに返事が来た。どこか、面白がっているようにも聞こえる。
「家の人が心配するよ。すぐにそこから下りて、こっちに出てきなよ」まだそれほど高くまで行っていないとはいえ、落ちたらタダでは済まない。
「やなこった。どうしてもって言うんなら、お前が来て、捕まえてみなっ」まあ、予想通りの答えだった。むしろ意外だったのは、その挑発に、まさかわたしが乗るなんて!
「言ったなっ。よーし、すぐに捕まえて、引きずり下ろしてやるからっ!」わたしは門にしがみついてよじ登り、あっという間に反対側へ降り立った。
入場口のゲートをまたいで通り抜けると、ジャングルジムに登る。
「こっち、こっち。早く来てごらんよー」すぐ上から顔を覗かせ、ベロベロバーッとおどけてみせる。
「小憎たらしいっ」わたしはムキになり、怖いのも忘れて、どんどん上を目指す。
「そんなのろいんじゃ、捕まんないよ。ほーら、ほーらっ!」子供は、まるで猿の仔のように、さっさっと登っていった。
「ちょっと待ちなってば。そんな高くまで行ったら、危ないよっ」必死に止めるけれど、言って聞くようなら、勝手に入ったりはしないだろう。
鉄棒は氷のように冷たく、手がかじかんでくる。追うのに真剣なのと、夢中になって体を動かしているおかげで、寒さこそ感じなかった。ただし、登るほど強くなっていく風は、思わぬ脅威となる。時折吹く突風が乗せかけた足をさらい、何度か踏み外しそうになった。
「ねえ、君ーっ。風が強くなってきたから、気をつけるんだよーっ。外側じゃなく、できるだけジャングルジムの内側を行くようにしてっ。その方が、いくらかはマシだからさーっ」
すると、上の方から応じる声がする。
「うん、わかったー。こっちは、風がビュンビュン言ってるよっ。なんだか、少し怖くなってきちゃった」
10メートルばかり頭上で、子供の姿が星明かりに照らされて、うっすらと見えた。さっきまでの快活さはなく、慎重に体を移していく。
「そこで止まってて。今、迎えに行くからさーっ」
「……そうする。だから、早く来て――」よほど怖いのだろう。もう、生意気な口を叩くつもりもないらしい。
わたしは、子供のいる場所をしっかりと見定め、一手一手用心して進んだ。
風がジャングルジムを揺さぶる。ギシギシと不気味な音が響く。開店を間近に、きちんと整備点検はしているはずだが、うっかり見落としたジョイントがあって、そこからガラガラと崩れだしたらどうしよう、そんな恐怖が沸々と湧いてくる。
思わず下を見てしまう。無数に組み合わさった真新しい鉄の棒が、真っ暗な地上へと延びていた。落下すれば、たちまちあの闇に飲まれてしまうのだ。
「ダメダメ、下を見ちゃ。上だけを、あの子だけを見て登らなきゃ」きっと今頃、寒さと心細さで震えているに違いない。早く、助けに行かなくては。
徐々に子供の姿がはっきりしてくる。服もズボンも黒く見えていたが、実際は赤いダウンにジーンズを履いていた。
「ふう、やっと追いついた」わたしは、子供のすぐ隣に登り詰める。その子は両手で傍らの鉄棒を握りしめ、じっと固まっていた。小学校4年くらいで、ショート・カットの女の子だった。
「あーあ、あとちょっとでてっぺんだったのになー」歯をカチカチ鳴らしながらも、悔しそうに見上げる。頂上ではためくフラッグまで、7、8メートルといったところか。
「そんなに体が冷えてちゃ無理だってば。それに、手だってかじかんでるんじゃないの?」
「でも……」よほど負けん気らしい。ここまで来て引き下がるなど、彼女にとって屈辱なのだろう。
「だったら」わたは子供の体をしっかり抱きしめる。「両手をすりあわせて、しっかり温めるの。いい? ガチガチのままの手じゃ、掴み損ねて滑り落ちちゃうからね」
女の子は、驚いた顔でわたしを見る。
「いいの? 上まで登っても」
「しょうがないじゃん。それに、ダメだなんて言ったら、そのうちにまた1人で登るかもしれない。見たことのある顔が事故に遭いました、なんてテレビのニュースを見るのはまっぴらだしさ」
「うん……ありがとう」
「それと、もう1つ」わたしは相手が口を挟む前に断った。「てっぺんまで、ついていくからね。すっかり登り切ったら、一緒に町の景色を見ようよ。このジャングルジムから夜景を眺める、最初の2人になるんだ」