さんざん待たされる
夕べ、桑田孝夫から電話があった。
「おう、むぅにぃか? 駅前の商店街に、新しくステーキ・ハウスができたの知ってるか?」
「うんうん、ポストにチラシが入ってた。開店記念で、1週間限定、半額なんだってね」確か、250グラムのフィレが、通常5,000円のところ、2,500円で食べられるという。
「明日行ってみねえ? 奢ってやるよ」
「えっ、ほんと?!」思わず、叫んだ。いくら半額だと言っても、2,500円はやっぱり高い。
「いいぞ。会社の改善提案で、臨時収入が入ったんだ。こういう金は、パアーッと使っちまった方がいいんだ」
そんなわけで、わたしは今、待ち合わせ場所の噴水公園のベンチに座っている。
バッグから携帯を取り出して、時間を見た。
「11時半か。約束の時間を、もう30分も過ぎている。まあ、時間通り来ないことはわかってたけど」わたしは、ふうっと溜め息をついた。30分遅れなど、まだマシな方である。1時間以上も遅刻することさえあった。
待ち続けること、さらに30分。公園の中ほどから、正午を報せる鐘の音が聞こえてくる。
「今日は特に遅いなぁ。休みだからって、寝過ごしてたりして」もう少し待っても来なかったら、電話をしてみよう、そう考えつつ、なんとなく先送りしてしまう。
面倒なのもあるけれど、今に来る、もう来る、そんな予感が決断を妨げていた。
公園は、昼休みを過ごそうとやって来た人で混雑してくる。あちこちのベンチでは、パンやお弁当を広げる光景が見られた。そう言えば、わたしも空腹だった。
「桑田の奴、早く来ないかな」遊歩道の向こうから、バタバタと息せき切って走ってくる姿が見えないかと、わたしは首を伸ばす。
ベビー・カーを押す若いママ、のんびりと散歩をする老夫婦が目に入る。桑田どころか、似た人物さえ見当たらなかった。
「あと1時間したら、今度こそ電話してみよう」わたしは、自分にそう言い聞かす。
その1時間も、いつの間にか過ぎてしまった。
「よーし、桑田に電話だ」携帯の電話帳を開いてめくる。桑田の番号はすぐに見つかったが、そこでまた指が止まってしまう。「もしかしたら、向こうからもかけようとしていたりして。だとしたら、バッティングしちゃうな。もうちょっと――あと、ほんの少しだけ待ってみよう」
そんなことを繰り返しているうち、辺りはすっかり薄暗くなっていた。
「ダメだ、こんなんじゃ。さあ、電話、電話」話し中になろうが、どうしようが、絶対にかけてやる。わたしはそう心に誓い、携帯を手にする。
ところが、いつの間にかバッテリーを使い果たし、電源が切れてしまっていた。
「どうしよう。いったん、家に戻ろうか」
歩いて、20分ほどで帰り着く。家の方に連絡がいっているかもしれない。運がよければ、道々、ばったり出くわす可能性だってあり得る。
「でも、引き返したあと、桑田がここに来ちゃうかもしれないしなぁ」桑田は、毎度のように遅れるが、すっぽかしたことは、これまで1度もなかった。大遅刻には違いないが、来ないと決まったわけではない。案外、今、この瞬間にも公園を目指して歩いているのではないか。
あれこれ悩んで、その場を動けなくなってしまう。
すっかり夜になり、冷え込みも一段と厳しくなってきた。
わたしは、寒さをしのぐため、ベンチから立って、噴水の前を行ったり来たり始める。体が温まるし、退屈も紛らわせることができた。
「桑田、早く来ないかなぁ」空きっ腹だけはどうにもならず、静まり返った暗がりの中、きゅう~っと悲しげな音が鳴る。辺りには人気もなく、誰も聞いていないことを幸いに思うのだった。
夜露に濡れそぼりながら、そう言えば、なんの用事で待ち合わせをしていたのだったっけ、と振り返る。
しばらく脳みそを絞って、ようやく思い出した。
「桑田がステーキを奢ってくれるんだった。確か、開店したばっかの店で、向こう1週間、フィレ肉が2,500円なんだ。それだって安くなっていうのに、期間が終われば、5,000円だもんね。食べなきゃ損だよ。しかも、お金を出すのはこっちじゃないときてるし」
日が暮れて、すでにだいぶ経っている。店は閉まった頃だろう。明日こそは、食べられるかな……。
結局、公園で朝を迎えた。じっとしていると凍えてしまうので、夜中、うろうろと歩き回っていた。おかげで、一睡もしていない。
「ああ、眠い。寒い。それに、お腹が空いた」半ば無意識につぶやく。自分では小声で言ったつもりだったが、疲れのせいか、かなり声高だったらしい。早朝ジョギングをしていて、脇をすれ違ったおじさんが、ギョッとしたように振り返る。
「桑田、昨日はとうとう来なかったなぁ。忘れちゃったのかも。まさか、桑田の身に何かあった、なんてことはないよね? それとも、待ち合わせの日にちを間違えてたとか。昨日じゃなく、本当は今日だった、なんてさぁ」
一昨日、桑田と電話でやり取りをした時、何曜日って言ってたっけ? 自分では土曜日のつもりだったけれど、日曜日だったかも。
心の内で問答しているうちに、だんだんとそんな気がしてきた。
すると、すべてはわたし自身の勘違いから起きた失敗、ということになる。
「昨日、電話をしなくてよかった。『遅いよ、こっちはもう何時間も待ってるんだからねっ』なんて、文句をぶつけて、大恥をかくところだった」
桑田のことだから、わたしの失態を誰彼かまわず言いふらし、後々まで笑い話のネタにするだろう。危ない、危ない。
日が高くなるにつれ、気温も上がってきた。時間を確かめようと、携帯を出すが、電池切れだったことを思い出す。遊歩道をちょっと行ったところに時計台があるので、それを見に行く。
10時半を少し回ったところだった。約束の時間は11時ちょうど。遅刻を見込んで、半頃か。その後、一緒に駅前まで行き、ステーキ・ハウスへと入るのだ。
250グラムどころか、もう1枚ぐらいいけそうだった。何しろ、昨日から食べていないのだから。
11時が過ぎ、12時の鐘が鳴り響く。
桑田は今日もやって来ない。
「そうか、さては1週間、間違えちゃったな。失敗、失敗」期間限定の半額は、翌週の日曜日まで有効なのだ。こうなったら、このまま待ち続けよう。
次の日曜日にも、わたしは桑田と会うことができなかった。
「そもそも、月が違っていた。開店『1ヶ月』記念、きっと桑田はそう言ったんだ。今まで待ったんだから、まだがんばれる」
130年と7ヶ月、プラス21日目。噴水広場の前に、ようやく待ち人が現れた。
「おう、むぅにぃ。わりい、わりい。ちっとばかし、寝過ごしちまってよ。じゃ、さっそく食いに行くか、ステーキ」