日なたのおじいさん
公園をうねうねと延びる、レンガ敷きの小路。今はすっかり枯れて明るい、スズカケノキの森の中、さらにいく筋も分かれ、楽しげな散歩道を作っている。
随所にベンチが置かれ、夏は木陰の涼を求めて、冬のこの時期には、さんさんと降り注ぐ日光を浴びるため、たくさんの人が訪れる。
その1つ、とりわけ古いベンチは、もっぱら「日なたのおじいさん」専用の席だ、と町の人から認識されていた。何しろ、長老と言われる乾物屋のハルばあさんが、まだ鼻を垂らしながら手鞠をついていた頃でさえ、日なたのおじいさんは「日なたのおじいさん」と呼ばれ、毎日、せっせと公園に通い続け、日がな一日、ベンチに座っていたそうだ。
その遊歩道を、わたしは志茂田ともると、のんびり歩いていた。
「まあ、多分の誇張はあるでしょうけれど」志茂田が言う。
「そうだよね。だって、乾物屋のばあちゃんが子供の頃って、ざっと数えても80年前じゃん。その時に日なたのおじいさんがもう『おじいさん』なんかだったら、とっくにミイラか何かになってるはず」
「おそらく、その老人とやらは、別の誰かだったのでしょう。ハルばあさんも年だから、勘違いしてしまっているのに違いありません」
ハルばあさんの名誉のために言っておくけれど、90御年となった現在でもかくしゃくとしていて、勘定も今時のレジどころか、電卓さえ使わず、頭の中だけでちゃちゃっとこなしてしまう。しかも、これまでのところ、1度だって数え間違えたためしがなかった。
そんなハルばあさんが勘違い、というのも妙なことである。さりとて、日なたの老人が、100を遙か昔に超えて今日に至る、だなんて、いっそう理屈が通らない。
そのうち、志茂田とわたしはスズカケノキの森へと差しかかった。
「ほら、今日も来て、ベンチにかけているよ」わたしは言う。
「見た感じ、70をちょっと過ぎたばかりですよね。やはり、ハルばあさんの思い違いでしょう」志茂田のその判断には、わたしも同意見だった。
噂は、何もハルばあさんばかりが出所ではない。少なくとも、町の年寄り達は、みな口を揃える。
志茂田の言うように、たまたま似た雰囲気の老人が、そのベンチを利用してきただけのことだろう。いつしか、同一人物がずっと座り続けている、そんな話に変わっていったのだ。
民話だの伝説なんて、たいていがそんなふうにして生まれる。
「本人に聞けたらいいんだけどね」とわたし。
「ええ、まったく。とうに、誰かが尋ねて、今頃は笑い話として終わっていたことでしょう」
日なたのおじいさんは、いつもニコニコして座っている。毎朝、どこから来てどこへ帰っていくのか、誰も知らないのだった。
「口がきけないのかなぁ」
「それとも、耳が遠いのかもしれません」
話しかけても、ただうんうんとうなずくばかり。こちらの言っていることが伝わっているのかどうか、それすらもわからない。
「不思議と言えば、おじいさんの周りだけ、いつも一足早く、春が来るよね」3月にならないと咲かないクロッカスが、近くの茂みではもう花開いていた。
「真冬でも、この辺りだけは日もよく照って、風の冷たさが和らいでいましたね。きっと、木々の間を通り抜ける空気の流れのせいでしょう」
わたし達は、日なたのおじいさんからさほど遠くないベンチに座った。さっきまでの北風が、ウソのようにピタリと止んでいた。ここだけは、草も緑色をしていて、周囲を取り囲むスズカケノキは、枝のあちこちに新芽をほころばせている。
日なたのおじいさんの姿を後ろから眺めながら、わたしはふと考えた。
志茂田は気流のおかげだと言っていたけれど、案外、あのおじいさんが春を呼んでいるのかもしれない、と。
ふと、思い出したことがあった。
「ねえ、志茂田。日なたのおじいさんって、朝来て、夕方日が沈む頃に帰っていくよね」
「ええ、そうですね」はて、なんの話でしょう、と言うように、わたしを見る。「曇りや雨の日も見かけませんよ。きっと、天気の日が好きなのでしょう」
「曇ってる日は、この辺りも一段と寒くなかった? 前に来た時、そんな気がしたんだけど」
「ああ、言われてみれば……」志茂田は心持ち顔を上げ、記憶をたぐる。
「実は、あのおじいさんってば、ふつうの人間じゃないのかも」わたしは、ついに大胆な発言を口にした。
「つまり、ハルばあさんや町の人の言うことが正しかった、ということですか?」
「うん。それも、百何十歳とかそんなどころじゃなく、もっともっと生きてきたんじゃないかって」
「うーん、興味深い意見ですねえ」志茂田は腕を組んで考え込んだ。
「妖精とかトロールじゃないかなぁ」笑われるのを覚悟で言う。
「たとえば、春の精だとか、木の精でしょうか。なるほど、体から醸し出す不思議な力で、辺り一帯を春の陽気に変えている、こうおっしゃるんですね?」
「ただの想像だけどさ」わたしはひかえめに付け足した。さあ、どんな批判が返ってくるだろう。
意外なことに、なるほど、なるほど、とひたすらうなずいている。どうやら心の中で自問しているらしく、時折、「いや、待てよ」とか「ああ、そうか」などという言葉が洩れた。
「むぅにぃ君、わたしはしばしば、あなたの意見に驚かされることがありますよ」かすかに興奮した口ぶりで言う。
「やっぱり、妖精?」珍しくほめられて、耳まで熱くなった。
「いえいえ、もっとたいそうな存在です。なぜ、もっと早くにわからなかったのか、わたしは自分を責めたくなりますね」
「たいそうってことは、すごく偉いってことだよね? それって、なんなのさ」わたしは聞いた。
「わたしはいつも感じていたのです。あのおじいさんの顔を覗いたり、そばへ行くと、ほっとすると同時に、痛いほどの懐かしさを」志茂田は日なたのおじいさんに目をやる。
日なたのおじいさんは、どこか温かく、心地い。それはわたしもずっと思っていた。それに加えて、どう言っていいかわからない感情が混ざり合っていた。そうか、それは懐かしさだったんだ。
「で、誰なの?」
「あの人――いえ、あのお方は『太陽』ですよ。今、やっとそれに気付きました」
何も語らず、ただすべてを照らし見守り続ける。「日なたのおじいさん」は、確かにそんな存在だった。