三、生きるか死ぬか結婚か
この香り……
心が落ち着く。確か昨夜も、すぐ傍で感じていたような気がする。
昨夜? でも昨夜は――
いつものように夜の町へくりだして妖を斬ったはず。確か八十三番目、順調に役目を終えた。
けど大きな異変が訪れた。私は出会ってしまったのだ、あの妖狐と。
妖しく光る金の瞳、透き通るような白い髪。そして形の良い唇が迫って――
「――ふざけるな!」
叫ぶと同時に掛けられていた布団を跳ねのけ飛び起きる。自らの叫びに驚かされるとは強烈な目覚めだ。
大きく肩で息をするうちに意識がはっきりとしていく。
「え――」
障子の向こうから差し込む朝日に茫然とする。眩しいほどの光は朝を告げていた。
「朝……? そんな、いつの間に……」
何が悲しいのか、自分でもよくわからない。それなのに私の目からは堪えきれない涙が溢れていて拭う気にもなれなかった。もう何もかもどうでもいいと思っていたのかもしれない。
「どうした、椿」
そう、今の今まではどうでもいいと思っていた。次の瞬間には涙も枯れ果てる勢いで冷めたけれど。
ギリギリと首を巡らせれば、これは夢の続き? 枕元に妖弧が座っていた。間違いなく悪夢。
「妖弧、どうしているの」
「俺の部屋だからな」
当然のように告げられる。
「なっ!?」
嘘でしょう!? とは言えなかった。
そう、この香り。部屋にはあの時、腕の中で感じた香りが満ちていた。
「それで、何故泣く」
「答えたくない」
何をさらっと話を進めているのか。「それで」ではない。もっと他に言わなければならないことは山積みのはずだ。
「そうか、困ったな。君が話してくれなければこちらも質問に答えられないかもしれない」
まるで困っている雰囲気が感じられないのだが。こちらに訊きたいことが山ほどあることを逆手にとられては、渋々ながらも私は口を開く羽目になる。
「……悪いことをしたから」
「なんだと?」
口にしてすぐ後悔した。出まかせをでっちあげれば良かったのだ。例えば妖に連れ去られたのが怖くて泣いていた、とか。……それは負けたようで悔しいので却下するけれど。
「日が昇るまでに戻らなければいけないと……」
次々と、会話慣れしていない口から洩れるのは本音ばかりだった。妖弧相手に馬鹿正直に事情を話すなんて――そう思うのに。それなのに、私の口は勝手に動き続けている。
「門限か?」
「そう、なのかもしれない」
望月家の汚点が世間に知れ渡らないよう、望月家の保身のために設けられたもの。
「初めて言いつけを破ってしまった。これで私は死んだことになった」
「どういう意味だ?」
私は布団から出ると無言で畳みの上に立つ。その拍子に薄い夜着に着替えさせられていたことに気付き、傍に刀が見当たらないことも確認する。その結果、反撃する隙を探るも俄かには難しいという判断を下した。
「見ればわかるでしょう、私には影がない」
私の足元を見つめる妖弧にすら影があるというのに皮肉なものだ。
「日が昇れば外を歩けない。どこへも行けない。こんな人間と繋がりがあると知られたら、その家はどうなると思う?」
一族ぐるみで異端扱い。望月家が最も恐れている事態だろう。
だから私は夜しか活動が許されていない。朝になれば戻ってはいけない。汚らわしい存在が望月の家系から生まれたなどと知られたくないのだ。
影がないことを自分から他人に明かすのは初めてだ。どうせ妖相手に不気味がられたところで何の痛手もないと自棄になっていた。
「言いつけを破った、私は悪い人間。でも、この胸には罪悪感が存在していない。何も感じていないなんて、罪悪感すら生れない私は……」
ああ、やっとわかった。
「私は浅ましい?」
どうして嘘を吐けなかったのか、形だけでも懺悔していたかったのね。言いつけを破ったことに対して後悔しているフリをして、反省していると見せかけたかった。こんな妖狐相手に懺悔したところで意味はないのに、口にすることで自分は良い人間なのだと思っていたかった。
そんな私の心情を否定するように妖弧は言う。
「当然だろう」
確かに自分で言ったことではあるけれど。お前が言うなと非難を込めて睨むんでしまうのは仕方のないことだ。原因を作りだした張本人のくせに!
「自分で言ったことではあるけれど、お前に言われるとはらわた煮えくり返る」
「違うさ。そう否定的に捉えるな。望まぬことを強いられて喜ぶわけがないだろうと言っただけだ」
「望んでいない……それは、私が?」
考えたこともなかった。妖を狩り望月家へ戻って、その繰り返し。それが私の日常で、それ以上の感情を考えたことなんてない。だから私には――
「お前の言葉はよくわからない」
「難しいことを言った覚えはないが? それと『お前』ではない。朧と呼べ、椿」
「誰が呼ぶものか妖。それから私のことも椿と呼ばなくていい」
「名前がなければ不便だろう」
「どうして知っているの?」
「なんのことだ?」
「だから! 私に名前がないことをどうして知っているかと訊いた」
「は? 君には名前がないのか!?」
いや、驚かされたのは私の方だ。てっきりそのつもりで話していると思い込んでしまった。
「俺はただ、名乗りたくないだけかと……」
つまり墓穴を掘ったということだ。納得して、私は違うという意味で首を振る。
「私を産んだ人も、私を産んだ人を産んだ人たちからも、与えてはもらえなかった」
きちんと説明したのにもかかわらず、妖狐がさらに困惑した表情を浮かべているのは何故だろう。
「何だ? ややこしいが……つまり両親と祖父母のことでいいのか? 素直にそう言えばいいだろう」
「そう呼ぶことは許されていない」
たとえ誰に見られていなくても怖くて呼べなかった。
「影がないからか?」
頷いて、私は両手の掌を見つめる。通う血は同じ、人間から産まれたはずが、どうして私には影がない? いくら考えたところで答えが出るはずもないのに。
「それで、ここはどこ? そろそろ私にも質問をさせて」
質問攻めにされているのも癪だ。
「すまないが、君の家を知らないので俺の家に招かせてもらった」
まったくもって悪いという意思を感じないのだが。嘘をつくならもっと上手くやってほしい。ほのかに弧を描く唇が憎らしい。
「私を生かしてどうするつもり?」
「妻にする」
「戯言」
「君は男の真摯な求婚を戯言と笑って流すのか? 趣味が悪いな」
「どこの誰が『真摯な求婚』をしたのかまず教えてほしい」
「なに、死んだことになっているなら好都合。このまま嫁入りしてしまえ」
名案だと呟く妖弧に、殴る蹴るの攻撃は有効かと真剣に考えた。
「……そうして私を食らうの」
「なんだと?」
「妖は人に仇なす、人を食らう」
面白そうに私を見つめる瞳は獰猛に光るでしょう?
その綺麗な唇は人の血を啜る。
長くて細い指、鋭い爪は人の肌を斬り裂く。
残酷な想像に浸るも、妖狐の返答は違っていた。
「確かにそういう奴もいることは否定しない。だが俺は違う」
「妖の言葉を信じると思うの?」
「誰がこんな薄皮と骨だけの人間を食うものか」
値踏みするように不躾な視線に、それはそれで腹の立つ言い分だ。
「全ての妖の言葉を信じろとは言わない。だが俺の言葉だけは信じてほしいものだ」
「私は人間、だから妖は信じない」
「なるほど。では妖である俺も斬るか?」
「当然。けど、自分の実力はわきまえているつもり……」
この手には反撃する術がないことも。あの黒い刃はどこへ行ってしまったのだろう。
「ほう、懸命だ。ならばここにいろ」
今何か、耳を疑う提案が聞こえたような。
「何て?」
「話を聞けば、帰る場所がないのだろう」
「そうね。お前のせいで」
「ならここにいればいい」
「私がお前たち妖を狩る側だと理解しているの?」
「それがどうした。妻にすると言ったはずだが」
どうしたもこうしたも普通あると思う。
「自分を斬るかもしれない人間を傍に置くなんて、馬鹿げてる」
「では君に俺が斬れるのか?」
「くっ!」
言葉に詰まった。斬りたいといくら望んだところで願望、実力が伴わないことは理解しているので口を噤んでしまう。実力の差は昨晩見せつけられたばかりだ。そんな私の心の声が聞こえているかのように妖弧は嫌味な微笑を浮かべている。
「斬れるものなら斬ればいい、いつでも狙って構わない。だが、俺はこれまで君が狩った奴らのようにはいかないぞ」
言われるまでもないと言葉で認めるのは癪で、また私は何も言えない。
「だから傍にいてくれ」
「お前に何の得がある?」
「交渉はここからだ。君を住まわせるにあたって三つ条件がある」
言ってみろと私は身構えた。戻る場所がないことも事実、たとえ目の前の男が原因だとしても朝になってしまえば私に成す術はない。
「一つ、逃げるな」
「わかった」
即答出来た。この妖狐はわかっていない。逃げると言うのは逃げる場所がある人間がすることで私には無縁の言葉だと。
「二つ、俺が生きている間この屋敷で俺以外の妖に手を出すな」
私は素直に頷くことはせず少し考えてから質問する。
「こちらが危害を加えられることもないと?」
「ああ、そう命じておく」
「わかった」
「三つ、できなければ大人しく妻になれ」
立ち尽くしていた私は盛大に崩れ落ちる寸前だ。
「なっ、なにを、まだ言うの!?」
まだ諦めていない!?
私はあからさまにうろたえていた。口説かれて照れているとか可愛いものではない。そんな次元ではない。人間を妻にしようという酔狂な妖狐に未だ驚きを隠せず呆れてしまう。そもそも妖の嫁なんて未来、あるわけがない!!
「どうした? 返事は?」
これまでと変わって一向に返事をしない私に焦れたのか、逃げ道はないと思い知らせるように挑発的な目が結論を求めている。
「わ、わかった!」
どうせ私の世界は生きるか死ぬか、了承する他ないのだ。
「言ったな。約束、違えるなよ」
妖狐は至極満足した様子で頷く。
「それは私の台詞。後悔させるから、覚悟していればいい。お前を八十四番目にする」
「なんだその数は」
「私が狩った妖の数。百の妖を狩れば、名をもらえるはずだった」
過去のことだと告げながらも私は考える。まだ遅くないかもしれないと、淡い期待を抱いていた。
目の前にいるのは妖弧、こんな大物そうそう目にできるとは限らない。貴重で強大な妖、だとしたらまだ間にあうかもしれない。一度は失敗したけれど、これが最後の機会。望月の人間だと認めてもらえるかもしれない。
都合の良い願望でも構わない。人は希望に縋らなければ生きていけない。私はこの境遇さえ糧にして希望を捨てない。
私の考えなど見えるわけがない妖弧は困ったように「やれやれ」と呟く。散々困らされたのは私の方だ。
「何が不満だ? 君の名は椿、美しい花の名だというのに」
「どれ程美しい花と言われようと私はその花を知らない」
花の名を教えてくれる人間などいるはずがない。仮に聞いたところで、そんなものは不要だと言われることだろう。私に必要なのは『戦う術』だけだった。
「ではいずれ見せてやろう。俺はこれからも君を椿と呼び続けるし、気にくわないのなら口を塞げるほど強くなってみせろ。無論それ以外の方法でも歓迎するが? 未来の奥方殿」
楽しげに見つめられ苛立ちが跳ね上がる。いよいよ我慢も限界だ。「そんな未来あるはずがない!」と、わざとらしく付け足された挑発に自分でも驚くような俊敏さで反論していた。




