十六、嫁候補襲撃事件後
読んでタイトルの通りです。
距離があるのが当たり前。それなのに、現在私たちの間に距離はない。傷に触らないよう腕の力こそ緩められたとはいえ、そばにいることに変わりはなかった。
いつまでこうしているのだろう。離れ難いと、朧は思っているのだろうか……
断じて! 離れてしまうのが残念だとか、そんなことが脳裏をよぎったりはしていない!
でも、こうしていると安心するのは事実だった。もう怖い妖はいなくて、生死の心配をする必要がなくて、安心していられると油断してしまう。じわじわと、朧の温かさは私を駄目にしていく。いっそ縋りついて泣き叫べば何か変わったのだろうか……
駄目、私はそんなことにはならない。一人で立って一人で歩く、だから朧は毒にしかならない。早く離れなければ――何度も焦りが生れては、耳元で警告を囁いていた。
宴の最中に起こった事件は『嫁候補襲撃事件』と命名された。けれど広間では今なお宴が進行中である。屋敷で働く者の間には瞬く間に広まったこの事件。けれどそれは彼らの間だけ。招待客は華やかな宴の陰で主催者の嫁候補(本人否定)が襲われたなど知る由もない。そもそも主催者に嫁候補がいるという大事も知られてはいないという。
中座した朧もようやく宴へ戻ってくれた。なんとかもっともらしい理由をつけて遠ざけることに成功した、この達成感! もう大丈夫だからと何度も言ったのに、手ごわい相手だった。
せめてもの譲歩とばかりに野菊をそばに置くことを条件にされているが、朧がそばにいられるより満足な結果だと思うことにする。けれど、ただでさえ手が足りない忙しいと皆が嘆いていたのに。いくら反論しようと、野菊を始め誰も私の話なんて聞いてくれなかった。
そこで私も譲歩と言うべき提案を一つ。
黒地に飾り気のない帯を絞めただけの簡素な造りは屋敷で働く女の妖と揃いだ。見た目よりも動きやすさを重視されたそれは着心地が良かった。これなら野菊もそばにいられるし、働き手の問題も解消される。
名案だ、お盆を手に私は広間へ足を踏み入れた。
理解はしていたことだが……妖がたくさんいる。ただの人間と見紛う妖も、当たり前のように角が生えた人間もいる。
料理と酒が並んだ机を前に各々が寛いでいた。話題は最近の町の様子だとか、商いについてだとか。まるでに人間のような会話が飛び交っている。
その頂点――上座にいるのが朧だ。彼は明らかに不機嫌な表情で酒を煽っている。主催者なのだから、そこは愛想笑いでも浮かべておくべきではと思わず心配してしまうほどに。
ふと、目が合う。
あまりにじっと見つめていたのがいけなかったのかもしれない。視線を感じたのだろう。
順調に酒を煽っていた朧の手は不自然な位置で止まったまま、石化してしまった。とはいえ私の役目は固まった朧を観察することではない。朧から受け続ける視線は無視して私は自分の仕事にとりかかる。空になった酒を足して回った。
無言で顔を逸らした瞬間「おい、ちょっと待て!」という明らかに私に向けたような言葉が聞こえた気がする。すぐに立ち上がろうとした朧を止めたのは、そばに控えていた藤代だ。私を止めようとした朧をさらに止めてくれた藤代、おかげで仕事の邪魔をされずに済んだ。先手を打ってくれた藤代に感謝をしつつ横目でうかがえば、今なお藤代が朧の肩に手を置き上座に縫い留めている。
「先ほどからつまらない顔で酒を飲んでいるかと思えば、突然どうされましたか?」
「どうした、だと?」
むしろお前がどうしたと言う形相で朧が問い詰めた。当然ながら藤代は私が働くに至った経緯を全て知っている。
「つい先ほど雇った者です。それが何か?」
「何か、だと? 問題しかないだろう」
「そうですね……。初めて働かせる方ですし、最初はわたくしも不安を抱いてはいました。なにせ妖を仇にされている様子、ですが先ほどの一件を受け感銘いたしました。これならば間違っても来客たちに手を上げることもないでしょう。それに立ち居ふるまいにも問題はございません。おそらく師が優秀だったのでしょう。どこへ出してもなんら恥ずかしくありませんが、朧様は何を問題だとおっしゃられているのです?」
「君の感想は聞いていない」
「さようで」
しばらく睨みあっていた二人。次に私が意識を向けた時、笑顔に戻っていたのは朧だった。
「そうかそうか。では彼女を呼んでくれ。気に入ったので酌を頼みたい」
「……酌、果たしてしていただけるかどうか」
藤代に呼ばれ、私は朧の元へ向かった。これでも忙しいのだが、他者からの目もある中で命令には逆らえないそうだ。
「弁明があるなら聞こう」
そばに寄るなり強めな口調。誰の差し金だと鋭い眼差しで辺りを見回している。
「弁明?」
悪いことをしているような言い草はやめてほしい。やましいことなどあるわけもなく正直に答える。
「忙しいと皆が言っている。それなのに一人減ってしまった。私のせい、だから私が代わりを務めると言ったの」
「君が?」
意外そうな声だった。てっきり藤代の差し金だと思っていたらしい。
「私ではあまり役に立たないとは思うけれど、あれは私のせい。だから手伝いたい」
「君のせいじゃない。俺のせいだ」
「何とでも思っていれば良い。私も何とでも思うから」
「そうか……」
諦めてくれたのか、朧は不貞腐れたように息を吐く。
あまりに唐突ではあるけれど、言いそびれていたことを告げる機会に思えた。
「そうだ朧。私、まだ言ってなかった」
あまり後回しにしたくない。遅くなった分だけ気持ちが減ってしまう気がした。
「改まってどうした」
平静に切り出したつもりが、そうは見えなかったらしい。確かに、少し声が固くなっていたかもしれない。
「助けてくれたこと、ありがとう」
身構えていたはずが、覚悟を決めてしまえばすんなり零れる。感謝を告げられ軽く目を見開いた朧よりも驚いたのは私の方。だって、こんなに簡単なことだった?
「当然だろう」
「お前の当然は私の当然と違う」
朧は事もなげに言うけれど。私にとっては初めてのことで、とても信じられないことだった。
ただ刀を振り妖を斬る――鮮やかさの欠片もなく蘇った虚しい光景。その中で私はいつも一人きりだった。
「誰かに助けられるなんて、初めてで驚いたの」
「……ならば感謝のしるしとして、酌の一つもしてほしいものだ」
「わかった」
「何?」
「だから、構わないと言ったの」
言葉を噛みしめるように何度も同じ会話を要求され、言い間違いではないと改めて念を押す。酔った妖に溢れているが、至近距離での会話が聞こえないほどの騒ぎでもないのに。
「……気が変わらないうちに今宵、今から頼もうか」
そう言って、今にも立ちあがりそうな朧。
「あの、今ここでじゃなくて?」
私の戸惑いは当然だと思う。
「宴、まだ終わってない。夜遅くまで続くと言っていた。お前がいなくなるのは、いけないことだと思うけど……」
私の困惑も無視して、朧は「知ったことか」とのたまった。
「妻との時間の方が大切に決まっている」
「妻じゃない」
「いいから、行くぞ。傷むだろう?」
お決まりのやり取りは軽く無視して、朧の視線は私の肩へ。そこには妖につけられた傷がある。庇うように重心をずらしていたことは簡単にばれていた。
「朧様!?」
どこへと問い掛けようとした私の代わりに藤代が叫ぶ。
「急用が出来た。後は任せたぞ」
「な、何を――それはこの宴よりもでしょうか? しかも椿様を連れてとはいったい何用です。差し出がましいとは思いますが、わたくしでは手に余る事態でしょうか?」
「ああ、最重要だ。すぐに縁側へ酒の用意を頼む。この栄誉、誰が他人に任せたりなどするものか!」
にやりと妖くし笑った朧に脱力したのは私も同じ。この妖何を言っているんだろう……そんな呆れが湧く。ただ酌をするだけなのに、一大事のように豪語しないでほしい。
「……はあ」
諦めたような藤代のため息が労しかった。
閲覧ありがとうございました。
お酌風景も書きたいと思います。またお付き合いくださると嬉しいです。




