十五、約束と信頼
お待たせ致しました。
少しでもお楽しみいただければ幸いです。
対峙する女は不思議そうに首を傾げる。
「もちろん私だって、初めからこうするつもりはなかったのよ。ただ、あなたが予想外にしぶといから困ってしまって。今頃死んでいる予定だったのに……」
眉を寄せ、憂い顔で長く息を吐かれた。いくら弁明されようと、困った顔を浮かべられたところで行いが消えることはない。
「予定を変更しないとね。本当は始末して欲しいと言われているけれど、難しいようなら貶めるだけでも構わないそうよ。だから、あれを殺したのはあなた。そして私にも襲いかかってきた」
名案だと笑う。
この妖は何を言っているの?
「私は朧以外に刀を向けない」
「誰が信じるのかしら。せいぜいあなたの立場を悪くしてあげる」
「朧は……」
私は朧を信じている。けれど朧はどうだろう。信じてくれるのか、根拠はどこにもない。
「あなた、邪魔なんですって」
「知っている」
言われるまでもなく最初から理解している。人間を食らうでもなく囲うなんて可笑しなこと、いかに主命であろうと妖たちが疎まないはずがない。
藤代だって、野菊だって……この屋敷の妖はおかしい。平然と私に近づいて、声をかけて、笑いかけて――
理解しているつもりだった。それなのに私の動きは鈍っていた。体が思うように動かないのは事実を突きつけられたせい? この妖の言葉が悲しくて、傷ついた?
鋭い爪を避けた拍子に腕を引かれ、畳みに倒れ込んだ。頬が擦れて熱を持つ。
「あら、案外殺せそう? 特に恨みはないけれど、緋月様の命令には私も逆らえないの。あなたも災難ね。彼女に目をつけられるなんて」
私の体に乗り上げた妖は優位な状況に口が緩むのか饒舌だ。刀があればこの状況を打破できる。でも傷つけてはいけない。相反する感情がせめぎ合い、やがて身動きが取れなくなっていく。
「悪く思わないでね」
爪が振り下ろされる先は脈打つ胸だ。
きっと刀さえ抜いていればこんなことにはならなかった。
でも、それをやってしまったら私は自分を赦せなかった。だからこれで良かったの。望月家からの言いつけを破ってしまった私が、今度は最後まで約束を違えずに済んだ。そのことが妙に誇らしい。
長く伸びた爪は霞めただけでも肌を傷付ける。このまま胸に突き立てられたらそれで終り。
こんなところで終わるのかと問い掛ける自分がいて――、それも悪くないと導きだされた結論に驚いた。
私が『生きてきた時間』と『朧と出会ってからの時間』、秤にかけたところで比重は圧倒的に後者の方が軽い。けれど私の秤は後者に傾く。それくらい充実した日々を送っていた。道具のように扱われるのではなく、名前のある人間として扱われていた。
全部、朧が与えてくれた。こんな場面で実感するなんて遅いけれど、感謝くらいはもっと伝えておいても良かった。感謝の言葉なんて減る物でもないのに意地を張っていた。
もう一度名前を聞かせてほしかった。この妖は『あなた』と呼ぶけれど、私には名前があるの。朧がくれた――
「椿っ!」
ああ、偽物とまるで違う。こんなにも想いがこもっているのに、今まで何を聞いていたのだろう。
声に誘われるように目を開くと私はまだ生きていた。
「どう、して……」
視線の先で驚いているのは女も同じ。けれど私の驚愕とは違い、表情には恐怖が交じっている。先ほどまでの嘲笑は消え青ざめていた。
「無事か!?」
僅かに顔を動かせば、朧が女の手を掴んでいた。怖ろしい力が込められているのか、みしみしと不穏な音がする。このまま握っていれば折れるのではないか、不安が現実になる前に藤代が女の身柄を拘束してくれた。
重みが消えた私は身を起こす。肩を負傷したことなんてすっかり忘れて畳みに手をつけば、傷を庇おうと呆気なく均衡を崩していた。
「椿!」
傷に触れないように、けれど力強く朧が抱きとめてくれる。おかげでまた頬をするという事態は避けられた。ああ、こう言う場面でお礼を言えばいいのかと口を開くが先手を打たれる。
「野菊に様子を見に行かせたが、姿が見えないと聞いた。何かあったのではと、探して回ったよ」
部屋から出ないと言ったことを思い出す。そんな些細な言葉さえ信じてくれていた?
「朧様、この女が仲間を刺したのです。ですから私が裏切り者を捕らえようと――」
藤代に拘束されながら女は叫んだ。
「うるさい、黙れ」
朧にぴしゃりと言い切られ、女は声を失くす。
「言っただろう、椿は約束を違えるような女ではない」
「な、何を申します。騙されてはいけません! この女は同胞狩りをしていたと聞きました。そんな女を囲うなど、どうかしています。朧様に卑怯な手でも使って取り入ったに違いありません。だからこそ――」
言葉は濁されたけれどその先に続く言葉を私は知っている。だからこそ『ひづき』という妖は私が邪魔だった。
「いつ、椿が俺に取り入った? むしろ多少は色でも使って取り入ってほしいくらいだ」
「朧様、そこまで言っておりません」
藤代が呆れた反応を示し、ようやく生きている実感が湧き始める。
「な、何をおっしゃって……? と、とにかく私はこの目で見ました!」
「ほう、なにを見たと?」
まるで試すような言い方だ。
「ですから、この女が刀で私の友を刺したのです!」
「椿が?」
「はい!」
それをしたのは自分なのに、なおかつ嘲笑っていたはずの女は平然と嘘を吐く。
朧は興味なさそうに妖の亡骸に刺さる刀を見遣った。
「彼女の刃は黒い」
「は?」
女は意味がわからないという表情で目を丸くする。
「確かに椿様は刃を黒く染めてしまいますね」
当然のように藤代が言い、朧が刀を抜き拾い上げた。
「椿、すまないが握ってくれないか」
痛みのない右を動かし、いつものように刀を握る。鏡のように透明な輝きを放っていた刃は、瞬く間に黒い闇色へと変貌した。それを皮切りに部屋の前で様子を窺っていた妖たちも口を挟む。
「私も見たことあるわ」
「確かに。椿様の稽古姿は何度か目にしているが、刃は黒かった」
そんな野次馬たちをかきわけ、飛び込んできたのは野菊だ。
「椿様はこんなことをなさる方ではありません!」
野菊が叫んだ。あの淑やかでお手本のような存在としていた野菊が……
「初めは私も戸惑っていました。朧様に刃を向けてばかり、怖ろしい方だと。でもそれは朧様にだけ、容赦がないのは朧様にだけです! 絶対に私たちに手を上げるようなことはありませんでした。本当はお優しい方なのです。こんな、怖ろしいことをなさる方ではありません」
ありがとう、野菊。そう思う反面、妖に庇われて複雑だ。
「朧、『ひづき』というのは誰?」
瞬時に辺りがざわつく。よほど有名なのか、その名を口にしたとたん視線を集めた。特に朧からの視線が痛く、彼にとって良く知る相手なのかもしれない。
「なるほど。これで椿の無実は証明されたな。まだその名は教えていない。あいつの手先か……。藤代、もういい連れて行け」
最後に朧は低く殺すなと命じる。けれどその表情、視線だけで今にも相手を殺せそうだと、何度も(一方的に)戦った私には感じ取れた。
「承知いたしましたので、その眼はお止めくださいませ」
命令の意味がなくなってしまいそうだと窘める藤代に、私も心中では深く同意していた。
騒ぎを聴きつけて集まっていた妖たちには厳重に口止めを施し、会場の手伝いへと戻らせる。こうしている間も、宴は終わってはいない。むしろこれからが本番なのだと言う。それなのに、朧は私の傍から動こうとしない。
「朧?」
じきに野菊が手当の道具を持ってきてくれる。だから早く宴へ戻るべきだと促しているのに、朧は聞いているのかいないのかわからない反応ばかり。
「怪我をしているな」
「少し切れただけ。心配されることはない」
「嘘をつけ、血が出ているだろう」
「すぐに治る。普通の人間よりは早く治るから」
失敗したかもしれない。なんだかただの強がりにしか聞こえなかった。誤魔化したくて、話しを重ねる。
「私が未熟だった。迂闊に誘い出されて愚かだった。まだ宴の最中でしょう、こんなところにいていいの?」
「いい。そんな物より君の方が大切だ」
朧は迷わず答えるが、藤代辺りがじき呼びに来るのではないかと思ってしまう。
「でも、藤代が困ると思う」
「勝手に困らせておけばいいさ」
ここに本人がいなくて良かったと安堵しているのは私だけ。朧は「それよりも――」と宴のことなんて頭にない様子で話し続ける。
「ああいう時は抵抗しろ」
ああいうときとは、生命の危機を指すのだろう。何故刀も抜いていないのかと問い詰められた。愛刀がすぐ傍にありながら鞘に収まったままではもっともな疑問だ。
「でも、それは……」
「なんだ、ちゃんと言え」
朧にしては強い物言いで、追求してまで私に言葉を求めるのは珍しかった。
「屋敷の者に危害は加えないと、誓った」
「あれはっ! ……いや、君はそんなことのために命を危険に晒したのか?」
「そんなこと、じゃない。私にとっては重要なことだった」
でなければ今、こうして面と向かって朧と顔を合わせていられない。それくらい私にとっては意味のある行為だ。
「臨時に雇った妖などと、言い訳だな。俺の責任だ。謝罪の印に一太刀くらいは受けて構わないが?」
いつでも良いぞと言われたのに私は動けない。こんな機会、二度とないかもしれないのに。潔く権利を行使して首を跳ねてしまうのが正しい行動のはず。
「お前が何かしたわけじゃない。気にしていない」
気にしなくていい? 妖相手に自らの発言を疑う。
「いいのか、絶好の機会だぞ」
「こんなことで機会をもらっても嬉しくない」
私は殺るなら自分の実力でなければ納得できないだけ。朧は騙し打ちのような形で幕を引いていい相手ではない。
「命を狙われたんだ。こんなことで済ませていいのか?」
「別に、日常だったから。それに死ぬことは――」
「怖くないと、本当にそう言い切れるのか?」
朧が私の手を取る。何がしたいのかと不思議に思い視線を向ければ唖然とするしかない。
「私……」
自らの手が震えていることに初めて気付く。
「強がる必要はない」
お前に強がらずして強がりとは誰に見せつければ良いものか、そう思った。だからそんな風に優しいことを言わないで。
初めて妖と対峙した時、怖ろしいと感じた。こんな怖ろしい生き物がいるのかと身がすくんだ。けれど感情を麻痺させて対峙する。怖いと呟いたところで意味はないから、だから蓋をしてきたのに……朧がこじ開ける。
「こわ、かった? ……怖かったに、決まってる」
本音が零れた瞬間、抱きしめられていた。恐怖から守るように囲いこまれ戸惑う。これは私を甘やかし、私を駄目にする優しい腕の感触だ。
「朧、痛い」
誤魔化すように言い訳を口にする。だが、全く嘘というわけでもない。すまないと小さな謝罪が聞こえれば腕の力が弱まった。
この温もりは生きている証、そして朧がそばにいる証。
ありがとうございました。




