十、雨とは都合の良いもので
深夜に失礼致します。
まだまだデート編でございます。
いつまでも店内で不自然に固まっていられない。言葉を失ったまま、私はふらふらと店の外に出る。
常識は崩れ去った。
人のような妖と生活を共にしているだけでも驚愕なのに。妖が、人に混じって生活しているなんて……
軒先に身を置き茫然とすることしばらく。
「この店、というより、この町には妖が紛れて暮らしているんだ」
さらに追い打ちをかける朧がいた。顔を上げれば視界に映るのは人間ばかり。けれど、この中にも妖がいるかもしれないと言うのだ。
「驚いただろう」
つまり、これが朧の秘密にしていた話というわけで。
驚いたか?
だったら成功、大成功と言ってもいい。驚かないわけがない!
耳元で囁かれたことを考えれば、おおっぴらに聞かれてはならないのか。代わる代わる店を訪れる客は普通の人間のようだ。
人の良い笑顔を浮かべた店主。先ほどまで信じて疑わなかった光景なのに。
「妖の拠点だが、さて。ここは俺の屋敷ではないな。どうする?」
いくら私でも朧の言いたいことは伝わっていた。
私の役目は妖を斬ること。そしてここは朧の屋敷ではない。危害を加えても約束を違えたことにならないと言いうのだ。
髪に差した簪が揺れる。それは私の心情のように不安げだ。
不安を和らげてくれる、唯一の支えはここにはない。けれどここに刀があったとして、私はどうしただろう。もちろん昼間から妖の存在をひけらかし騒ぎを起こそうとは思わないけれど。
日が暮れたら?
斬る。
それが私の役目。
でも本当に、私に斬れる?
だって、笑ってる。客を前に笑う姿はどう見ても人間だ。
現在店内にいる客は年頃の少女。私とは違い、代わる代わる簪を眺めては迷っている様子だった。その度に店主が助言を繰り返している。その着物に似合う品はと親身になって話しこんでいた。
「雨なのに人が途切れない」
私が呟けば朧も店内に視線を戻す。
「ああ、繁盛している。店主は商売上手だな」
ざあざあと鈍く雨の音が響く。いっそ私の迷いも洗い流してくれたなら……。
「私は……」
雨は次第に強さを増し、まるで桶をひっくり返したようだ。不安げな私の言葉は簡単に掻き消されてしまう。
「雨が――」
雨に負けないよう、はっきり口にすることで私の決意も決まっていた。
「今日は雨。どこかの誰かが何か呟いていたような気がするけれど、雨音のせいでよく聞こえなかった」
「そうか。雨とはじつに都合の良いものだ」
朧の声は楽しげだ。まるで答えがわかっていたかのように驚きもしない。
「情けをかけたわけじゃない。私は何も聞いていない、から」
まるで自分に言い聞かせるような言葉。そう、妖に情けをかけるはずがない。
認めてしまえばもう、自分が自分でなくなってしまう。だからこれ以上は口を噤んだ。そして考えてはいけないこと――
嫌な耳鳴りがする。
『影無しめ、育ててやった恩を忘れたか』
頭の中で響く声が責め立てる。幻にまで怯えるなんて滑稽だ。
ここに彼らがいるはずもないのに。けれど現実ほどに精巧な幻は、きっとこう言われるだろうと身体に沁みついている。容易に想像がついてしまうのだ。
目の前にいるくせに、何を考えているか想像のつかない朧とは大違いで笑えてしまう。
『妖は根絶やしにしなければならない』
体の温度が下がっていく。今私がした行いを知られたとしたら、それだけで二度と望月の敷居をまたぐことは出来ない。見捨てられる。
それでも目の前の、人の形をした妖を斬ろうと思えない。甘いと罵られるだろう。でも、それでも私は――
「椿、顔色が悪い。平気か? 」
朧の手が頬に触れていた。その手が温かいと感じてしまうのは私が冷え切っているせいか。
妖にも体温がある。これまでの私は知りもしなかった。彼らを、ただの冷たい生き物だと思っていた。身も、心も。
「平気だから、触らなくていい」
顔色が悪い? 私はこんなに弱かった?
弱さを指摘されたことなんてない。いいえ、してくれる人がいなかっただけか。唯一己の未熟さを自覚させられるのは傷を負った瞬間。それが狂わされていく、自分の弱さを見せつけられてしまう。
「長く歩かせて悪かった。寒いだろう」
『人でいたければ――』
気遣うような朧の優しさが耳鳴りと重なる。
そう、私は人でいたい。だから――
「私はそんなに弱くない」
「知っている」
あからさまな、ただの強がり。それでも朧は受け入れてくれた。けれどわかっていると言われたことが癪で、つい自分でもわけのわからない反論が飛び出してしまう。
「違う、私は弱い」
「どっちだ」
呆れたような声も当然だ。
認めるのは癪だけど私は弱い。未熟とも言える。現に朧に勝てず、妖と傘を共有するなどあるまじき行為を許している。思い返せば辛いだけだ。
「雨で足場も悪くなっている。少し休んでいこう」
もっともらしい理由をつけて朧が手を引く。また同じ傘に押し込められ肩を抱きこまれた。
やめてほしいと反論すれば、足場が悪いからと言う。土に足を取られて転ぶなんて無様な真似はしない――そんな反論を考えもつかなかった。それくらい、私の心は乱れている。




