-HONEY & MILK-
今年の梅雨は、雨が少ない。例年なら、七月の上旬は梅雨の後半戦。じとじととした雨で空は暗く閉じているだろう。
それが今年は、この有様。からりと晴れた青空に蝉の大合唱が響き渡り、まるで八月の盛夏のごとくだ。
「水不足とか、大丈夫ですかね。貯水率、怪しいみたいですけど」
「取水制限を始めたようだから、大丈夫じゃないかな」
それは大丈夫とは言わない気がするのは、僕だけだろうか。そんな視線に気付いたのか、彼女は軽く肩を竦める。
「節電要請で無理やり消費を抑え込んで、停電が起きなかったから、電気は足りているっていってるんだ。
なら、節水でどうにか誤魔化して、断水にさえならなければ、結果として足りたってことになるだろうさ」
皮肉じみた、いや、皮肉以外のなんでもない言い草で、吐き捨てる。
彼女は暑さに弱い。だから、例の震災以来の節電風潮には、批判的なのだ。
室温二十九度で頭脳労働が出来るわけがない、なんて愚痴をこぼしていたこともある。
クーラーをガンガンに効かせた部屋で、アイスクリームを食べるのが夏の正しい楽しみ方なんだ――とも。
「大体、節約して乗り切ったっていう状態を、どうして足りているなんていえるんだ。
ホームレスに向かって、あなた死んでいないからお金は足りてますね、というようなものだよ」
だんだんと、極論になってきた。どうにも、この暑さでイライラしているようだ。
僕の部屋にはクーラーがないので、正しい夏の楽しみ方とかいう彼女の宗旨に反していることも拍車をかけているかもしれない。
「とはいえ、水がないと、人間生きていけませんからね」
「私はハゲさえあれば生きていける」
話の軌道修正を試みたけれど、本線に戻るどころか別のコースに飛び移ってしまった。
レースゲームのショートカットでもあるまいが、あるいは、彼女にしてみればそちらが本線なのかもしれない。
台所に向かった彼女が、例によって、勝手に冷凍庫を開ける音がした。もちろん、彼女の生きる糧は準備してある。
「よし……こんな暑い日は、さっぱりとしたフレーバーで攻めよう」
響いてくる声音は、すっかり機嫌の戻った様子だった。アイスクリームを選んでいるうちに、苛立ちも忘れたらしい。
アイスクリームを手に戻ってきた彼女は、鼻唄でも歌いはじめそうな表情を浮かべていた。
「ハニー・アンド・ミルク、ヨーグルト仕立て」
楽しげにフレーバーの名前を読み上げて、ベッドの上に腰を下ろす。ぺりりと、内蓋を剥がす音が鳴った。
なんとか仕立てというと高級レストランのメニューに乗っていそうな名前だが、つまるところは蜂蜜ミルクをかけたヨーグルトだろうか。
蜂蜜にミルクというと、冬場に暖めたミルクに蜂蜜を垂らして――というのが思い浮かぶけれど。
ホットではなくて、冷たいアイスクリームとしては、組み合わせとしてどうなのだろうか。
「うん、いいじゃないか」
僕の抱いた疑問に応じるように、彼女が満足げな声を洩らした。
レストランでソムリエがワインの味を語るように、彼女はフレーバーについて語りはじめる。
口に含んだ瞬間、優しいミルクの甘さと蜂蜜の風味が口に広がる。
まるで蜂蜜入りのホットミルクのような穏やかな、くどくない甘さ。
そこにヨーグルトの程よい酸味が加わって、蜂蜜がけのヨーグルトのようでもある。
両者の風味が合わさって混淆とした結果は、あるいはレアチーズケーキにも喩えられるかもしれない。
また、内部には半透明の蜂蜜が筋のように練り込まれていて、控えめな甘さに慣れてきた舌に新たな甘味を追加してくれる。
スプーンで食べ進めていくうちに出会うその変化は、単一生地のフレーバーにはない楽しみでもある。
「――と、いうわけなんだよ」
感想を訊ねたわけではないのだが、滔々と雄弁を奮ってくれた。
もっとも、アイスクリームのことを語っているときの彼女は、アイスクリームを食べているときの次に幸せそうだ。
だから、彼女が自発的に喋りはじめなければ、もしかしたならば僕のほうから水を向けたかもしれないのだけれど。
「そういえば――年にどれくらい食べてるんですか?」
壁に寄りかかって文庫本を捲りながら、ふと気になって、彼女の生きる糧について訊ねてみた。
彼女が腰掛けたベッドが、少し軋む音がした。
暫く沈黙があって、僕が文庫本のページを二回めくったところで、返事があった。
「……どうだろうね、考えたこともなかった」
一年は五十二週だから、この部屋で食べている分だけでも、五十個を超えていることは確かだった。
もちろん彼女が訪れない週だってあるけれど、複数個が消費される週はそれ以上にあるからだ。
文庫本のページを追いながらそう告げると、彼女は少し考えた様子でそれに応じた。
「なるほどね。そうしたら、二百個以上は食べているかもしれないな」
こればかりは、僕も流石に文庫本から顔を上げざるを得なかった。
だって、一年は三百六十五日しかない。二日に一個以上のペースだというのだから、驚くほかない。
彼女が愛するアイスクリームの銘柄は、価格もそうだがカロリーも相応にある。
「……よく肥りませんね」
彼女の身体の線をまじまじ眺めて目で追って、そう呟いた。
暑い季節の薄着だから、出るところはそれなりに出て、引っ込むところは引っ込んでいるのが良く判る。
それだけアイスクリームを食べていて、よくもまあ均整のとれた体形を保っているものだ。
「キミね、女性に向かって、その発言とその視線はどうかと思うよ」
呆れたような声と視線を投げつけられたが、正直な感想だったのだから仕方ない。
「いや、まあ――大体、なんだって、そんなに食べるんです」
失態を誤魔化すように、そう問いかける。
彼女の瞳から呆れの色は消えていなかったが、やや笑いの色が混じった。
どうやら誤魔化されてくれるようだったが、あるいはただ保留されただけかもしれない。
「ふむ――そうだね。たとえば日曜日は、明日からまた仕事という憂鬱がある。
だから、その憂鬱を癒し、気力を奮い立たせるためにハゲを食べるのは当然だろう?」
なにが当然だか判らなかったが、ここで口を挟むと、追求が再開される。そうかもしれませんねと、曖昧に頷いておく。
「月曜日は説明するまでもないかな。キミだって、ブルーマンデーという言葉を聞いたことぐらいあるだろう?」
休み明けの月曜日の朝、仕事に行きたくないという憂鬱。
つまりは、それを解消するためにアイスクリームを食べる必要があるのだという。朝っぱらからとは、恐れ入った。
「水曜日なんかは、週の真ん中。週末まであと半分だと自分を激励するために、ハゲが欲しくなるわけだ」
今度は、一週間の折り返し地点で、一息入れるためという主張だ。
判らないでもないが、理解していいものかは判らない。再び、曖昧な頷きを返しておいた。
「金曜日ともなると、一週間分の疲れが溜まっているからね。
そこで、最後の一日、頑張ろうと朝食代わりにハゲを食べるわけだ。
なんといっても、疲労回復には甘いものと相場が決まっているだろう?」
再びの、朝からアイスクリーム。胃腸が弱い人間には真似できないだろう――真似する人間もいないだろうけれど。
「で、土曜日はここで、ですか」
「そうだね。一週間の労働を終えたあとで食べるハゲは、なんといっても格別だよ」
日月水金土。いや、彼女のことだから、まず間違いなく、気分次第で火曜日木曜日に食べることもあるだろう。
なんというか、年間二百個で済むのかどうか、大いに怪しいものだ。
「もしアイスクリームが品薄になったら、どうします。節電節水ならぬ、節アイスクリームとか」
生乳がなんとかでバターが品薄ということもあったから、可能性が全くのゼロというわけでもない。
しかし、彼女はきっぱりと言ってのけた。
「暴動を起こすね」
彼女なら、本気でそれをやりかねない。
農水省に向かって行進する暴徒の群れの先頭で、声高にシュプレヒコールをあげる彼女の姿が容易に想像できる。
ニュース映像に残る安保闘争や成田闘争のデモ隊のごとく、角材や火炎瓶を手にして機動隊とぶつかり合うのだ。
「暴動起こしたって、足りないものは足りないでしょう」
「まあ、そうだね。どうしたって数を減らさないといけないとしたら――」
悩むだろうかとも思ったが、続く言葉は早かった。
「土曜日の分だけは確保したいものだね、せめて」
彼女は楽しげな色を瞳に浮かべながら、こちらに視線を向けてきた。
土曜日。先ほどの彼女のコメントを思い返して、それもそうかと納得する。
「まあ、金曜の仕事上がりに飲むビールみたいなものなんでしょうね」
一週間を終えた自分へのご褒美は、やはり一番大切ということだろう。
そういうことだと思ったのだが、先の失言のとき以上の呆れ果てた視線が返ってきた。
「……キミは……全く……なんというか……」
わざとらしい溜息を吐き、大仰な仕草でこめかみを押さえ、彼女は全身全霊で呆れていることをアピールしていた。
「なんでそう……そうなのかな、キミという人間は?」
「え、ええっと……?」
一体、どこで選択肢を間違えて、どこで地雷を踏んだのか。
アイスクリームのように冷ややかな視線に、僕が正体もなくうろたえていると、溜息ひとつ。
「……他の日にすると、お互い、別のものが足りなくなるんじゃないかと思ったんだけどね?」
確かにそれは――物理的ではないなにかが、足りなくなる。
節約しようにも節約できない、大事なものが。
「週に一個は、なんとしても確保します」
「よろしい」
視線と声色が暑熱にあてられたアイスクリームのように柔らかくなったので、どうやら、許してもらえたようだった。