-Japonais <バニラ&きなこ黒蜜>-
七月、最初の土曜日。
重苦しい灰色の雲と振り続ける雨が、大気をじっとりと不快指数で染め上げる。
扇風機と団扇以外の空調装置が存在しない部屋で、窓が開けられない雨天となれば、それも当然かもしれない。
そんな、およそ快適に過ごすには不適当な部屋に、軽いノックの音が響き渡る。
「お邪魔するよ」
例によって、例の如く。家主である僕が返事をする以前に、扉が開く。
閉め切った部屋の湿っぽい空気が、外気と入り混じって、流れていった。
幾分か不快感が和らいだように思えるのは、換気のせいだけではないだろう。からんという足音が、小気味よく響いた。
「……なんです、その格好?」
「浴衣以外のものに見えるなら、眼科の受診を勧めるよ」
確かに、彼女が纏っている衣装は、浴衣以外の何物でもなかった。
淡い水色の地に青と藍で花を散らした浴衣に白の帯を締めた、涼やかな姿。
それが、冷凍庫を開けて屈み込んで、アイスクリームを漁っている。不思議な光景だった。
「ん、ああ……期待を裏切らないね、まったく」
どことなく嬉しそうな声と共に、冷凍庫を閉じる音がした。何のことを言っているのかは、明白だった。
彼女が愛してやまないアイスクリームの銘柄の、とあるコンビニエンス・ストア限定の新発売のフレーバー。そのことだろう。
「それで、どうしたんですか?」
いつもどおり、僕のベッドに腰を下ろしてアイスクリームの蓋をあけた彼女に、問いかける。
「うん、なにがだい?」
その格好のことです、と。そう視線を向ける。
「ん? ああ、どうかな。まあまあ、悪くはないだろう?」
そういうことを尋ねているのではなかったが、しかし、曖昧に頷くしかないのも確かだった。
何しろ、その涼やかな色合いの浴衣は彼女によく似合っていて、彼女が部屋に入ってきたとき、見惚れてしまったのは事実だったからだ。
「……その格好でアイスっていうのは、TPO的にどうなんですかね」
誤魔化すように、そうだけ言う。が、やはりというべきか、役者は彼女のほうが上だ。
「そうでもないさ。このハゲはさ――」
愉しそうに、フレーバーの特徴について語り出す。
きなこ風味のアイスと黒蜜で構成された上部は、さしずめ山梨土産でお馴染みの信玄餅。
その下に広がる練乳のソルベと餡子ソースの層は、まるでカキ氷の練乳金時といったところ。
贅沢に四層まとめて口に含めば、それはまさに和の甘味が夢の共演。
「つまるところ、濃厚に和を感じさせる一品なんだよ」
「だから、浴衣姿でも問題はない、ってことですか」
「そういうことだね。ああ、ひとつ付け加えるなら」
なんですかと、視線で問う。得意げに匙をたてて、彼女は力説した。
「私はハゲを愛しているし、ハゲだって私に食べられたがっている。だから何の問題もないんだよ、そう、ノー・プロブレムなんだ。わかるかい? どんな格好をしていたって、私は私だからね」
言わんとすることはさっぱり判らなかったけれど、まあ、幸せそうにアイスクリームを食べる彼女をみていると、彼女とアイスクリームという組み合わせの時点でベストマッチなのだろう。
「それにしても、この時期は毎年雨ですね」
「梅雨だからね」
短い答えが返ってくる。アイスクリームを食べているときに、返答があっただけでも良い方だ。
「可哀想というか、なんというか。難儀ですよね」
「なにがだい?」
「いや、ほら。織姫と彦星ですよ、七夕伝説の。年に一度の逢瀬が、毎年毎年、雨じゃあね」
返事は、すぐにはなかった。意外なものを眺めるような視線が、向けられていた。
「驚いたね。キミがそういう、夢のある発想をするとは思わなかった。なかなかメルヘンだね」
「祭りのテキ屋が可哀想と言ったほうが良かったですか?」
「そんな下らない話だったら、聞き流したけれどね」
ごもっともとひとつ肩を竦めて、床に転がっている文庫本に手を伸ばす。と、言葉が続いたのはそのときだった。
「年に一度の逢瀬だからこそ、天気が悪いのじゃないかな」
「どういうことです?」
どうやら、下らなくはない話だったらしいけれど、彼女の言葉はよく判らない。確か、雨が降ると天の川の水嵩が増して、逢えなくなるという話があったと思うけれど。
「だって、織姫と彦星は夫婦だろう?」
「そうですね」
働き者の二人が結婚したら、夫婦生活を楽しみすぎて怠け者になり、怒った神様に引き離された――という話だ。そして、年に一度だけ逢うのを許されたのが七月七日、つまりは七夕ということだ。
「それが、年に一度しか逢えないとなったら、だよ。その日は、思う存分いちゃつくに決まってるじゃないか」
彼女から、いちゃつくなどという単語が出てくるとは思わなかった。しかも、何かの重要な問題を論議しているかのような真顔で。「……まあ、そうですね」
「だから、織姫と彦星が人目を気にせず逢瀬を楽しむための計らいとして、空には雨雲がかかっているんだよ」
それこそ、まったく夢のある発想というべきだった。人のことをメルヘンだのと言っておいて、これだ。そう嘆息したのを不同意の証ととったのか、彼女は少しむっとした表情を浮かべて、アイスクリームの匙をぴっと向けてくる。
「なんなら、想像してみるといい」
「いや、想像といったって……」
何をどうしろと。眉根を寄せた僕に、彼女は挑戦的な笑みを浮かべて、言い放った。
「私が来年の七月七日まで来ないといったら、キミ、その日も淡々としていられるのかい」
それは大変とても説得力のある喩えであったので、僕は素直に、降参することにした。