-30th Aniversary Rose-
三月の十四日が十五日へ、金曜日が土曜日へと変わろうとしている。
とても暖かな、冬の終わりを感じる風。ただ、その風は強く、がたがたと窓が鳴っている。
その風音に紛れるように、ノックの音がいつものように部屋に響いた。
「や、お邪魔するよ」
返事をする前に開いた扉へ、視線を向ける。強風で幾らか乱れた、亜麻色の長い髪。マフラーはせず、コートの前も留めていないようだった。
「どうぞ」
いつものように、一言だけ応じて。微か、口許に笑みが浮かぶのを自覚する。
いつもどおり、冷凍庫を勝手に開けた彼女が、戸惑うように間を置いたからだ。
「……ああ、その。装飾というか……リボンが付いているんだけど、これは」
勿論、訊ねられるまでもなく、彼女のために買い置いたものだ。そのくらいのことは、僕だってする。
「ああ、気にせずどうぞ。ホワイトデーだとかで、付けてくれたので」
彼女がそれを信じたかどうかは、判らない。
ただ、コンビニエンス・ストアの店員は、冴えない男が買ったアイスクリームへのラッピングを自発的に申し出るほどサービス精神が旺盛ではないのは、おそらく全国的に確かであるだろう。
「そう。じゃあ、ありがたく」
それを知ってか知らずか、彼女はそれだけ言って、いつもどおりベッドに腰掛けた。その手には、なんでも三十周年記念商品だとかいうフレーバーの、ピンク色のカップが納まっているはずだった。
彼女の手が止まっているのに気付いたのは、さて、どれだけ経った頃だろうか。文庫本を十ページかそこら読んだくらいだったから、ほんの数分のことだろう。
彼女がアイスクリームを食べる手を止めるなんてことは、滅多にない。だから、怪訝に思って、視線を向けた。そこには、なんと形容していいのか判らない表情を浮かべた彼女がいて、泣き出しそうな困ったような、儚い微笑を返してきた。
「……どうしよう。生まれて初めて、ハゲを食べていることに喜びを感じられないんだ」
耳を疑うような言葉とともに、僕は、彼女の瞳に濡れた光があるのを、目にした気がした。
「えっと……どうかしました?」
「……なんというか、ね。どこかで信じてたいたんだ。バラのフレーバーと聞いて心配していたんだけど、でも、それでもハゲなら……って。ハゲならきっと大丈夫、私を裏切ったりしない……って。そう、信じたかったんだ」
「いえ、だから……どうしたんですか」
「でも、結局……結局、ハゲも同じだったんだ。私の期待を弄んで、こんな、こんな……!!」
恋人の浮気を疑いながらも信じ続け、そして決定的な証拠を目にしてしまった純朴な女学生のように、彼女は泣き崩れた。ベッドの上にくずおれる彼女の姿を眺め、僕は一言、口にした。
「ともかく、落ち着いてください」
彼女はそうした。
「……いや、西洋なんかじゃ、バラのジャムは珍しくはないけれど。
日本人の味覚や嗅覚にとって、なんというかさ。
バラのフレーバーというのは……遺伝子レベルで、芳香剤のようなものと刻み込まれているんじゃないかな」
正気に戻った彼女は、首を力なく左右に振って、そんなことを口にした。まるで、審判の日を迎えた善良な老婆のような、澄み渡った表情だった。諦めきって全てを受け入れた、虐待された子供の艶のない瞳だった。つまるところが、まったく正気に戻っていなかった。
「そこまで言われると、逆に興味が沸きますね。一口、いいですか」
彼女が、素直にアイスクリームを他人に渡すという時点で、まったくの異常事態だった。差し出されたアイスクリームのカップと匙を取って、ほんの少し、薄紅色のアイスクリームを口に含んだ。甘酸っぱい、ベリー系の酸味と――鼻腔に届くバラの香り。
――ああ、なるほど。これは、芳香剤だ。脳がそれを認識した直後、口に広がる甘味と酸味が、饐えたアンモニア臭が漂う公衆トイレの空気を胸いっぱいに吸い込んだときのような錯覚に侵される。
単体ならば、バラの高貴な香りと優しい甘さであるだろうそれも、芳香剤という単語が浮かんだが最後、暴力的なまでに強烈なトイレのイメージがすべてを侵食するのだった。
「……ぅ」
けれど、ああ。僕はここで屈するわけにはいかないのだ。
彼女はいつだって、幸せそうにアイスクリームを食べていなければいけない。
ちびりちびりと、噛み締めるように。一口ごとに、幸福を味わい放散していく。
アイスクリームが彼女を苦しめることなどあってはならない。アイスクリームだけは、彼女を裏切らない。そのはずだ。
「――そう、悪くないじゃないですか」
すべての精神力をつぎ込んで、顔面の筋肉と声帯を制御して、そう言った。怪訝そうに、彼女がこちらを覗き込む。
「ああ、そうだ。一応、先月のお返しをしときますね」
怪訝が疑問に変化する直前に、匙にすくったアイスクリームを、彼女の鼻先に伸ばして。
「え? いや、キミ、何を……」
「先月のお返しです」
匙を、彼女の唇に触れるか触れないか、そんな距離にまで突き出して。ただ、待った。
そうして、数秒か、数十秒か。おそるおそる、そんな調子で、赤い舌が匙へと伸びてきた。
「……美味しいでしょう?」
彼女がひとくち食べ終わったあとで、訊ねてみたけれど。
バラのアイスクリームよりも鮮やかな色に染まった彼女は、味なんて判らない、と――それだけ呟いたのだった。